スピリチュアルの世界では、『手放す』という言葉がよく使われます。
わたしは、『手放す』という言葉を知るより先に、体験をしていました。
感情が動いた時、「何かを観せられているようだ。」とわかってから、
感情が動くと、「何を観せられているんだろう。」と、自分に問うようになりました。
最近自分が気にしていること。
よく頭の中に浮かぶ場面。
それと、今回感情が動いた出来事を、照らし合わせてみると、
「え わたしって、評価されることを気にしていたの?」
そんな気づきが起こりました。
この瞬間に、手放しています。
本当に手放したかどうかを知るには、もう一度、感情が動いた出来事を思い出してみます。
さっきまで、あんなにあの人のことに腹を立てていたのに、全く何も感じなくなったら、手放せました。
『手放す』とは、フォーカスしなくなることであって、無くなってしまうことではありません。
「優しくしなければならない。」と思い込んでしまうのは、大抵は、優しくしてもらえなかった体験があったりします。
優しくしてもらえなかったことで、優しくされたいと思うようになり、優しくすることが、いい人だと言われる条件のように思い込んでしまいます。
この思い込みがあることで、
優しくできない自分を責める事になったり、
優しくしていない人を見ると、腹が立ったり、
優しくされない自分は、ダメな人間だと思ったり、
優しくしている人を見ると、あの人はいい人だと思うようになったり、
身近な人の中で優しい人がいると、自分と比較して、「あんなの優しさなんかじゃないわ」と、自分とその人と比べたりしてしまいます。
いわゆる「優しさ」に拘ってしまいます。
こだわりが強ければ強いほど、感情が溢れ出てきますから、感情に振り回されることになってしまいます。
人は、優しい時も、怒る時も、泣く時もあります。
だけど、優しさに拘っていると、「優しさ」だけに、フォーカスするようになってしまいます。
このフォーカスを無くすことを、『手放す』と言います。
「優しさを手放すと、優しくなくなるんじゃないのか」と質問されることがありますが、そういうことではなく、
優しいとか、優しくないとか、そういうことさえ思わなくなり、
周りの人から見れば、優しいと思われるようなことをして、「優しいね。」と言われたとしても、「そうなんだ」と思う程度になります。
優しくしなければならないから。
優しくするのが当たり前だから。
そんなことなど意識することなく、手を差し伸べることができるようになります。
「第三者には優しくできるのに、家族には優しくできない。」とか、
「お客さんには優しくできるのに、スタッフには優しくできない。」
などということはなくなってしまいます。
わたしには、いっぱい拘りがありました。
感情が動きまくっていましたから。
優しくなるために手放すのではなく、
自分の偏りに気づく。
その偏りを教えてくれるのが、目の前の嫌いな人、イヤな人、気に食わない人です。
観ることができないわたしを観せてくれる。
陰陽一対に成るしくみが、この世界にはあります。
だから、必ず、裏側のわたしを観せてくれる人が現れます。
それはそれは、見事なタイミングで現れます。
昨日まで仲良くしていたのに、今日になって、わたしの胸をえぐるようなことを言ってきたり、
今日初めて会ったのに、怒鳴り散らしてきたりと・・・
果物でいえば、一番食べごろのタイミング。
言い換えれば、
わたしが気づけるタイミングであり、
そこで気づけば、必ず次元上昇できるタイミングです。
このしくみを知った時、
わたしの感情を動かせてくれるその瞬間を待つようになりました。
そもそも、裏側のわたしは、わたしには観えないのですから、わたしの偏りをフラット状態にしてくれるのは、感情が動くその瞬間しかないわけですから、大チャンスなわけです。
手放せば、こころが軽くなっていくのが、手に取るようにわかりましたから、
こんなに楽になるなら、
「バッチ来い
」
そんな想いでした。
もちろん、辛いことや、苦しい感情が現れるのはイヤでした。
イヤだけど、ひとつづつ丁寧に実行していくしかないと思いました。
色んなことに感情が動いていたのに、徐々に穏やかになっていっていることに気づくようになりました。
でもね、自我の世界は、こんなもんで終わらないんです。
感情云々っていうのは、まだまだ序章だったんです。