『否定』することが、一番、心にも体にも影響を与えているように思います。
人の心の中は、観ることができません。
例え、観ることができたとしても、それが本当のその人の思っていることかというと、そうでもないと思います。
何故なら、わたし自身、本当のわたしを知るまでには、随分と時間を要したからです。
角度を変えると色んな方向から観える『否定』があります。
自分以外の人の考えを、はっきりと『否定』する『否定』。
自分を『否定』する『否定』。
相手と意見がかみ合わない『否定』
向き合うことから逃げる『否定』
『否定』だと思っていない『否定』。
体調が悪いのに、無理に働こうとする『否定』
そして、一番わかりにくい、裏側にいる『否定』があります。
色々挙げましたが、遣う場面が違うだけで、全て同じ『否定』で、反対側には『肯定』が存在しています。
この世界には、『鏡の法則』が存在し、『肯定』の流れがあります。
『肯定』の流れに乗ると、心も体も抵抗感がなくなります。
抵抗感とは、心でいえば、
感情が炙りでている時や、悶々としたり、重いと感じたり、やる気が出ないといった感覚。
体でいえば、
だるいとか、動きたくないとか、重たさを感じるような感覚。
こういう時は、『否定』の方向へ意識が向いていて、止まっている状態、循環していない状態、流れていない状態、進まない状態です。
『鏡の法則』を遣って、『わたし』を、陰陽一対にして、『肯定』の流れに乗ります。
観るのは、『わたし』です。
ここには、とても難しい・・・というべきか
「そんなこと、思ってもみなかった。」
というような、本当に気づかない、正義の壁があります。
自我意識は、それでなくとも、自分が正しい=肯定側 だと思っています。
そこへ、100人いれば、100人が正しいと言うであろう、
「人を傷つけてはいけない。」
「優しくしなければいけない。」
「助けてあげなければいけない。」
などのような、親や大人、道徳でもならってきたような正しいこと、この裏側にも『否定』が存在しています。
『否定』は、どちらかに偏ることで、現実の世界に観えるようになってきます。
「優しくしなければいけない。」 と思う気持ちが強い場合、大抵は、
「優しくされなかった」という体験をしていたり、
大人から、こっぴどく「優しくしなければいけない。」 と言われ続けてきた体験があるように思います。
そうすると、
優しくできない自分を責めたり、
優しくしていない人を観ると、その人を責めたり、
優しくしているのに、感謝してくれないと、優しくしていることが、いけないことのように思って、「優しくする」ということに、とても執着していくようになります。
今度は、反転が起こって、
他の人から見れば、なんでもないようなことでも、
「優しくされていない」と、思い込んで、
「あの頃と同じだ。わたしはいつもこんな人生だ。」
と、思ってしまい、自分を『否定』する方向へと、舵をとってしまいます。
霊性進化プロセスでの課題の解は、
人が習ってきた、正解、不正解の答えではありませんでした。
偏りをなくす。
受け入れる。
認める。
赦す。
それらは、陰陽一対にする手段であり、
『魂の羅針盤』 = 『肯定』の流れ = 宇宙の法則に乗ることでした。
自分以外の誰かを何かを、『否定』することは、
わたしを『否定』することです。
『否定』する相手は、わたしに『肯定』を教えてくれています。