誰かに、わたしが、不快になることを言われた。
何かを、失敗してしまった。
イヤなことをされた。
誰かを、怒らせてしまった。
誰かを、泣かせてしまった。
誰かに、感情をぶつけてしまった。
このような、わたしにとって都合の悪い出来事が起きた時、感情が現れます。
自我の世界に、どっぷり浸かっていた時のわたしと、今のわたしを比較してみると、変化したことがあります。
自我優位の時は、「感情」でストップしてしまっていましたが、
今は、そこからスタートをきれるようになっています。
何かを、誰かに言われて、傷ついたり、腹が立ったりすると、
「傷つけられた。」という想いから、幻想物語が始まり、
「腹が立った。」という想いから、幻想物語が始まり、
その「傷つけられた」、「腹がたった」という感情が、余計に増幅していくような状況でした。
幻想物語というのは、体験したその事実に、
「あの人は、きっとわたしのことを、こんなふうに思っているんだ。」とか、
「あの失敗は、あの時、あの人が気をつけてくれていたら、そうはならなかったんだ。」とか、
そんなふうに、実際には、相手がそう思っているのかどうかもわからないのに、勝手にその人の性格や人生をねじ込んで、あの時に別の出来事が起こっていたらという、「たられば」を、自分の思考の中で創り上げていく、自分は、間違っていない、正しいんだと言う、言い訳の物語のことです。
ざっくり言えば、
目に観えた事実に、色々な自分の想いや感情、あることないことをくっつけて、その出来事が大きく膨らんでいく状態です。
で、結局行きつくところは、
「あの人に、謝ってもらうしかない。」とか、
「上司に言って、何とかあの人の性格を変えてもらうしかない。」
みたいな、
絶対に間違っているのは、あの人で、わたしは、間違ってなんかいない。
という方向へ向かっていってました。
自我の特性どおりの思考です。
今は、観えた世界によって、感情が動いたとしても、
必ず、「自分に還す。」
を、実践しています。
わたしが観ている世界は、わたしの世界です。
わたしが、怒られたとしたら、わたしが相手を怒らせたわけです。
大抵は、わたしが既に怒っていました。
その人に対しての時もありましたし、別の人に対して、家族の誰かに対してとか、
そして、ここで終わらずに、
怒らせた事実は事実ですから、どんな理由があっても、謝ります。
その上で、
仕事上であれば、再度確認して、至らないところは修正します。
ただ、これだけでは、世界は変わりません。
誰かに対して、わたしが怒っていたとしたら、そこをゼロに戻します。
そして、仕事上での確認ミスだったり、このくらいでいいやというような、めんどくさいを使った結果そうなったのであれば、
二度と、めんどくさいを使わない行動を選択していきます。
この1回で、観える世界が変わるのか?と言われれば、
わたしの意識の向く方向は変わります。
そのことで、さっきまで怒っていた相手の人が、
「わたしも、言い方が悪かったね。」という行動を観せてくれたとしたら、わたしの意識が、肯定に反転したことがわかりますから、タイムラインが変わったことはわかります。
だからといって、また確認ミスをしたり、めんどくさいを使えば、また同じ世界に戻ってしまいます。
ですからわたしは、自分を律して、継続させて、
そのことが、歯を磨くように、箸が置いてあれば、右手で持ってしまうように、当たり前になるまで継続させています。
「感情」で止まる。
自我の得意技です。
言い換えれば、
「あぁ、わたしは、感情で止まってしまうなぁ」
と気づいたら、自我の世界にいることがわかります。
気づきは、色々なことを教えてくれますが、
自分の今の意識の居場所を教えてくれるのも、その一つです。