誰か毎日、掃除をしてくれないかしら。
機械に材料を入れたら、料理が出来上がって出てこないかしら。
もっと楽な仕事はないのかしら。
週に2日くらい働いただけでも、十分生活できるような仕事はないかしら。
自我の世界にどっぷり浸かっていた時、とにかく毎日疲れていました。
「あ~、疲れた。」
それはもう、
暑い夏に、「暑いわねぇ~」、寒い冬に、「寒いわねぇ~」
それくらい、当たり前のように、毎日そう言わなければ1日が終わらないように、口癖のように言っていました。
「あ~、疲れた。」
そう言う表側のわたしの裏側には、
“わたしが一番大変なのよ。1日中患者さんの看護をして、仕事が終わっても、今度は家事。わたしがやらなけりゃ、誰もやらないし。何で、わたしばっかりこんなに大変な思いをしなきゃらならないのよ。あなた達は、それがわかってるの?”
と、まだそれでも言い足らないくらいですが、
これを丸っとまとめてしまうと、
「わたしのことを、誰もわかってくれない。」
と、思い込んでいるわたしがいます。
そう思い込んでいますから、当然、その世界が現実世界に映し出されます。
わたしの望みは、
働かず、家事もせず、
でも、買いたいモノは買えるだけのお金があって、
朝は、起きたい時に起きて、夜も寝たい時に寝る。
でも、美味しい物は食べたいし、
行きたいところへ、いつでも行きたい。
家族の誰かが、家事を全部やってくれて、お金も稼いでくれて、わたしはひたすら、楽をする。
自分さえ良ければいいという、自我の得意中の得意な身勝手な想い。
自分の、気にいったことはするけど、めんどうなことはやらない。
直ぐに望む結果に辿り着けるならやるけど、そうじゃないならやらない。
本当に、呆れるほど、矛盾した想いを持っていました。
霊性進化プロセスを、体験して思うのは、
自我の世界の「楽」と、本当の「楽」は、全く違っていることでした。
自我の世界の「楽」は、責任を全く持とうとしない「楽」でした。
ちょうど、幼い頃のように、
食べることも、掃除することも、洗濯することも、働くことも、何も考えず、ただひたすら自分のしたいことだけしていればいいのと同じように思います。
自我の世界から出ようとすると、
何度も何度も繰り返さないと出られないし、
完全に覚悟を決めなきゃ、前に進めないし、
想いや感情に流されていれば、辛苦はあるけど、楽なのに、いちいち自分の意識に意識を集中させなきゃならないし、
あきらめずに、ずっとずっと問い続けてるし・・・
本当に、自我意識から観れば、ぜんぜん楽な世界じゃないじゃない。と言われそうだけど、
次元上昇をすればするほど、楽になっていく。
これは、金メダルを取ったアスリートに対して、
「今、どんな気持ちですか?」
と質問して、
「◯◯◯です。」
と答えたところで、実際に金メダルを取ったことのないアナウンサーには、言葉だけでしか捉える事ができないのと同じです。
この世界に法則があることを知ることは、
自我意識で言えば、「無駄なことをしなくていい。」
法則の通りに、素直に、生きていけばいい。
自我の世界に、どっぷり浸かっていたわたしが思っていた「楽」と、
今、わたしがいる世界の「楽」は、比較なんてできない「楽」です。