「信頼って、いったい何なんだろう。」

 

 

いつも一緒にいる家族でさえも、信頼できない時があるし、

 

何十年も仲良くしていたのに、たった一言で、その関係が壊れる時もある。

 

 

いつも親しく話しをしてくる人が、信頼できるかというと、そうでもないし、

 

逆に、ほとんど話しもしないのに、何かっていう時には、必ず助けてくれる人がいる。

 

 

信頼は、されるもの? するもの?

 

 

 

 

 

信頼は、全く別の次元に存在していました。

 

 

 

 

 

わたしを、一番、信頼できていなかったのは、わたし自身でした。

 

 

 

「これをやってみたい。」

 

そう、わたしが言っているのに、

 

 

「わたしに、できるわけないじゃない。」

 

「無理無理、お金がないんだから。」

 

「いくつだと思ってるの。若い子みたいにはできないわよ。」

 

 

 

そうやって、わたしの自我は、ことごとくわたしのことを信頼せず、また、わたしは、わたしで、そんな自我の言い分が正しいと思い込み、結局わたしのことを信頼せずに、行動に移せないでいました。

 

 

「100%成功する保証があるなら、やってみてもいいけど。」

 

自我は、どこまでいっても、自分が優等生でいなければならず、失敗する姿など、誰にも見せたくないと思っています。

 

人間意識で言えば、プライドが高い状態です。

 

 

 

 

石橋を、叩く前に、そもそも渡らない。

 

わたしが、「やりたい」って言ってるのに。です。

 

 

 

 

 

 

『鏡の法則』の『理』が、わかるようになって、

 

信頼は、わたし自身がわたしを信頼しない限り、外の世界には観ることはできないのではないかと思い始めました。

 

 

じゃあ、どうやって、わたしはわたしのことを信頼したと言えるのだろうか。

 

どうなったら、わたしはわたしを信頼していると確信できるのだろうか。

 

 

そんな疑問が生まれました。

 

 

 

 

 

この世界に、宇宙の法則があることを知って、その法則が本当にそうなのか確かめるために、何度も何度も検証してきました。

 

その検証を続けていると、上手くいくときと、上手くいかない時がありました。

 

それで思ったんです。

 

 

「誰がやっても同じ結果になるから、法則というのだから、絶対に何かコツがあるんだ。」

 

そう思いました。

 

 

 

大谷選手が、ホームランを何本も打てるのは、彼にしかわからないコツ、いわゆる感覚を遣っているようなコツのことです。

 

誰にも見ることができないコツ。

 

 

コツとは、『理』です。

 

 

 

 

『鏡の法則』の『理』がわかるようになって、

 

『鏡の法則』を、どんどん遣うようになると、現実という観える世界が変わっていくという体験を繰り返したことで、『信頼』が腑に落ちました。

 

 

 

わたしの世界は、『意識の世界』で、この『意識の世界』の法則 = 宇宙の法則を信じ切れた時、わたしの世界は、信頼で満たされていきます。

 

わたしが、『意識』であることを、何ら疑問にも思わなくなります。

 

それだけ、わたしの意識の変化で、現実の世界が変わってしまうという体験を繰り返しました。

 

 

 

今のわたしは、

 

信頼するとか、しないとか、

 

信頼してくれないとか、信頼しなければとか、

 

裏切ったとか、裏切られたとか

 

そんな拘りは一切なくなり、

 

無味無臭のような状態です。

 

 

 

 

宇宙の法則の存在を、心底信じること。

 

そのわたしの意識の世界が、現実の世界に投影されるようになりました。