総合病院で働いていたわたしは、息子の発病(縦隔原発胚細胞腫瘍)を機に退職をし、治療をする息子に半年間付き添うことになりました。

 

2013年3月20日に、息子は21年の人生を閉じました。

 

 

 

自分のことなら、我慢や努力をすれば、何とかなることが、息子の病気だけは、どうにもならないことでした。

 

落ちるところまで落ちたわたしは、失業保険をもらえる間は、ゆっくり休もうと思いました。

 

 

 

再び、もとの病院で働くことになるだろうと思っていたのですが、導かれるように、福祉関係の仕事に就くことになりました。

 

障がいサービス事業所で、看護師として入職しましたが、わたしの看護師としての経歴は何の役にも立たず、職員にバカにされるような毎日を送りました。

 

 

 

利用者さんの前では、職員は明るく元気で、本当にいい人にみえましたが、ひとたび休憩室に入って昼食を一緒に食べれば、そこにいない人の悪口が始まります。

 

わたしが、その部屋を出れば、わたしの悪口が始まり、

 

「あなたのこと、こんなふうに言ってたわよ。」

 

親切な職員が、わざわざ教えてくれる始末です。

 

 

 

そんな中で、半年ほど経った時、わたしは管理者になります。

 

わたしが優秀だったわけではなく、とにかく職員同士が仲が悪く、目の前で大声で喧嘩をするような状態で、職員がどんどん辞めていき、正規職員はわたしだけになってしまったからです。

 

管理者になったことで、事務処理をしなければならなくなり、事務所でその仕事をしていると、「楽ばかりしている。」と言われるようになり、わたしは段々と職員と離れていくようになりました。

 

3つの総合病院で働いたことがありますが、こんなに人間関係の悪い職場は、初めての経験でした。

 

 

そんな頃に、義母が老人施設に入り、乳がんになりました。

 

 

管理者の仕事をすることで、毎日夜の8時、9時まで残業し、人間関係の悪さに疲れ、もう働く気力を失ったわたしは、義母の介護を理由に辞めることにしました。

 

辞めるといっても、他の職員は誰も請求処理など知りませんでしたから、事務員として非常勤で務めることにしました。

 

 

年内で辞めようと思っていたところ、総務課長から、サービス課(福祉事業所を統括する課)で働かないかと誘われ、承諾し、もうすぐ9年が経とうとしています。

 

 

 

 

この文章を読まれて、

 

「そんな大変なところで働いていたんですかぁ」

 

と、思われた方もみえるかもですが、

 

 

この世界が、わたしの自我の世界で、選択しなかったもう一人のわたしが投影した世界だと知るのに、ここから8年という時間を要しました。