生きていると、色んな想いや感情が現れます。
楽しい想いばかりであればいいのですが、そうはいかないのが人生なんだと思っていました。
重い周波数の感情が現れた時、それは必ず課題投下のサインでした。
課題投下とは、
「気づくと、ステップアップできますが、どうしますか?」
と、問われていることです。
課題を見つけるには、
わたしがどんな世界を外に観ていて、
最近わたしが思っていることや、わたしの行動を振り返る必要があります。
課題は、テストのように、「◯◯を読んで、次の問いに答えなさい。」と、最初からわかる問いではなく、気づきが起きた瞬間に課題が何だったのかがわかるようなしくみです。
そして、この課題を解くことができると、さっきまでの想いや感情、いわゆる悩みが一切消滅してしまいます。
例えば、仕事上で、
わたしは、これでいいと思って何かの資料を上司に提出しようとしたところ、先輩に、
「ここんとこ、こうした方がいいわよ。」と言われた。
わたしとしては、直さない方がいいんだけどな。と思いながらも、先輩が言うのだからと直して上司に提出した。
すると、上司に、
「ここは、こういうデータではなく・・・」
と、さっき先輩に言われて直したところを指摘され、結局、わたしが最初に作成していたデータでよかった。
こういう時、本当は、
「わたしは、上司の望む通りのデータを作成していましたが、先輩に言われたので直してしまったんです。」と言いたい。
でも、先輩も直ぐそこにいるし、それは言えない。
わたしは、納得しないまま、席に戻って、データを修正して提出した。
このような出来事が起こった時、先輩や上司に対して、
“なんで、わたしが悪かったみたいになるのよ。”
と、悶々としてしまい、仕事が終わった後に、自分と仲のいい職場の同僚に、
「ねぇ、ちょっと聞いてよ~」
と、今日の出来事を聞いてほしくなります。
大抵は、仲のいい同僚は、わたしの味方になってくれます。
「そりゃ、先輩が悪いわぁ~」とか、「はっきり言えば良かったのよ~」とか、
何とか、わたしの気持ちが治まるように聞いてくれます。
あとは、時間が経過して、わたしの感情が治まるのを待つのみです。
先輩だからと、我慢するのみです。
と、以前のわたしは、こんなふうに自分の想いや感情と付き合っていました。
なにせ、そこに課題があるなどとは思ってもいませんでしたから。
わたしが、どこにフォーカスしているかは、わたしでなければわかりません。
先輩に対してなのか、上司に対してなのか、はたまた、先輩に言えなかったわたしなのか、それとも、先輩のことを上司に言えなかったわたしなのか・・・
出来事というのは、短編小説のようなモノで、
開始されると、その出来事の到達点へと向かいます。
出勤すると、就業時間までが仕事で、朝からずっと仕事をし続けていますが、わたしの想いや行動を文字に落として、小説のように書いてみると、短編小説の集合のようなモノです。
先ほどの出来事で、わたしがイヤな想いをすることになったのは、先輩や上司のせいだと思いがちですが、
わたしの世界の短編小説なので、わたしは途中でタイムラインを変えることができます。
先輩が指摘してきたところというのは、実はわたし自身が、
「まっ、これくらいでいいかっ。」
と、いい加減にしていたところであったりします。
もし、わたしが自信をもってデータを記載していたとしたら、先輩に何かを言われても、
「わたしは、こう思って作成したのですが、先輩の意見を聞かせてもらえませんか?」等々、
「先輩に言われたから・・・」
ということにはならなかったはずです。
いい加減にしていたことを、自我のわたしは認めたくありません。
ですから、先輩や上司のせいにするという、言い訳がはじまります。
そして、同僚に話しをして、「わたしは、正しい。」と、誤魔化した。
さきほどの出来事は、完結してしまいましたから、もうもとに戻ることはできません。
ですが、明日も仕事はあります。
「めんどくさいなぁ」
「これくらいでいいか。」
「ま、なんとかなるっしょっ。」
こういう自我の邪魔が入ったら、自我の言う通りにはならず、やり切る。
そうすれば、悩みは消滅してしまいます。
これらは、仕事だけではありません。
わたしの日常全てを修正していきます。
何故、そこまでするのか?と問われたら、
わたしは、わたしが生まれる前に決定してきた『魂の羅針盤』の道を歩きたいからです。