嫌いなことは、嫌い。

 

苦手なものは、苦手。

 

やりたくないことは、やりたくない。

 

 

 

好きじゃないのに、無理に好きになんてなりたくない。

 

全く興味もないのに、やる意味なんてない。

 

一度きりの人生なのだから、楽しいことだけやっていたい。

 

 

 

 

ほんと、その通りです。

 

ただ、これらの言い分は、『本当のわたし』が思っていることとは、違う場合があります。

 

 

 

 

例えば、

 

わたしは、テニスに興味があって好きだから、テニススクールに通い始めて7年が経ちます。

 

でも、わたしは、将棋には興味がないので、藤井氏のニュースを観ると、「凄いなぁ」と思うことはあっても、「だから、わたしもやりたい。」とは、なりません。

 

 

これを、「逃げている」とは言いません。

 

 

 

 

「逃げている」というのは、

 

わたしが、そうなりたいとか、それを望んでいるのに、そのことに対して、観て見ぬ振りをしていることです。

 

 

例えば、

 

「お金が欲しい。」と、思っているのに、

 

「働くのはイヤだ。」

 

「楽にお金を稼ぎたい。」

 

「朝は、早く起きたくない。」

 

「人と関わるのはイヤ。」

 

「今、お金がいくらあるかわからない。」等々・・・

 

 

現実から逃げていることです。

 

 

 

 

例えば、

 

「綺麗になりたい。」と、思っているのに、

 

どうせ何をしたって、綺麗にならないんだからと、

 

髪の手入れや、お肌の手入れは、めんどくさいと適当にする。

 

服には、アイロンもかけず、いつもヨレヨレで、

 

服を買う時も、適当に買い、クローゼットの中もグチャグチャ。等々・・・

 

 

現実から逃げていることです。

 

 

 

 

 

例えば、

 

「友達が欲しい。」 と、思っているのに、

 

誰かが言ってくれれば挨拶をするけど、自分から、挨拶するのは苦手。

 

誰かが誘ってくれたら、わたしは仲間に入るけど、自分から声をかけるのはイヤ。

 

「どうせ、こんなわたしの事なんか、誰も興味をもってくれないに決まってる。」と、自分が他の人に興味を持たないことに対しては、気づかない。

 

「人の顔色ばかり伺うのは疲れるから、友達なんか欲しくない。」と、自分が、嫌われることを怖がっていることから目を逸らす。等々・・・

 

 

現実から逃げていることです。

 

 

 

 

 

わたしの体験上ですが、

 

いつも気になって、何度も何度も頭の中で考えてしまうことは、逃げるんじゃなくて、向き合うことでした。

 

 

なぜ、それが気になるのか。

 

どうすれば、向き合えるのか。

 

何を、怖がっているのか。

 

 

大抵は、意地になって、勝手に

 

「あの人は、きっとそう思っているのに違いない。」と思い込んで、

 

ひとりで、悶々としていました。

 

 

 

 

こういう時は、必ず、何か気づかなければいけない課題がありました。

 

それは、いつも

 

逃げてはいけないことでした。

 

 

 

イメージで言えば、

 

 

 

目の前の壁を、乗り越えるのではなく、

 

 

壁があるのは、わたしの目の前だけで、それは、わたしが勝手に思い込んだことで、少し右に行けば、少し左に行けば、そこには壁などなく、

 

 

 

全く観た事もない、新しい世界への扉でした。

 

 

逃げている限り、その扉は観えてこない。

 

そんなしくみが、この世界にはあります。