『現実の世界』にも、『意識の世界』にも、『肯定』の流れがあることを知りました。

 

 

 

自我の世界の存在を知らなかった頃のわたしは、

 

わたしが観る『現実の世界』と、わたしの『意識の世界』は、全く別物であり、何ら関係はなく、わたしの人生は、『現実の世界』に応じていくしかないと思っていました。

 

 

自分の特技を持っている人や、ビジネスのノウハウをよくわかっている方は、どんどんとその道で才を成していかれるのだろうけど、わたしのような、特に、これというようなモノがない場合は、それが運命であり、どうしようもないことだと思っていました。

 

 

そんな想いでいますから、いつも不満足状態です。

 

その日その日は、いつものように過ごしていますが、いつも未来に対する不安を持ち合わせていました。

 

 

 

 

 

そんなわたしでしたが、この世界には『肯定』の流れがあることを知るようになってから、どうすれば『肯定』の流れに乗ることができるのかを検証し続けた結果、胸の中は、満足感で溢れるようになり、それが24時間持続している状態になっていきました。

 

だから思ったんです。

 

「宇宙の法則には、『肯定』の流れが本当にある。」と。

 

 

 

 

 

自我の世界は、二元構造です。

 

自分が選択行動した結果、自分にとって都合の良い状態になれば、「これで良かったんだ。」と、自分を褒めたり、自信がついたり、前向きになることができます。

 

この時は、『肯定』の流れに乗っています。

 

 

逆に、自分にとって都合の悪い状態になれば、後悔したり、自分を責めたり、自信を失って、停滞状態になります。

 

この時は、『否定』を選択しているので、『肯定』の流れには乗れず、停滞=止まったような状態になります。

何かのきっかけがないと、次に進めません。

 

 

 

 

わたしの『意識の世界』が、『否定』を選択している時というのは、感情や想いで思考はいっぱいになっています。

 

 

 

落ち込むようなことは、いくらでも思いつきますが、前向きになどなかなかなれません。

 

そうやって、想いや感情で創られているのが、自我の幻想物語です。

 

 

 

 

自我は、優等生で、完璧で、わたしが法律だと思っています。

 

ですから、失敗は赦されないのです。

 

周りの人に、わたしが完璧な人じゃないと思われることは、絶対に赦せません。

 

 

ですから、どうしてわたしが失敗するに至ったのかを、根掘り葉掘り蒸し返し始めます。

 

“あの時、Aさんが賛成してくれていたら、こんなことにはならなかったのに。”

 

“あの時、Bさんがあんなことをしなかったら、こんな結果にはならなかったのに。”

 

とにかく、わたしが失敗した理由が、わたしにあっては困るわけです。

 

 

それほど自我は、自分を最優先で、

 

 

 

先頭に立たせたいと思っています。

 

 

 

そもそも、誰かや何かのせいにすることは、『否定』となり、『肯定』の流れには乗れません。

 

 

そう言われると、誰かや何かのせいにしている自分に気づくと、

 

“あぁ、またわたしは、人のせいにしている。” と、

 

 

 

また、落ち込むことになります。

 

いつまでたっても、『肯定』の流れに乗れない、

 

 

メビウスの輪の中に、入り込んだ状態になって抜けることができません。

 

 

 

 

思考はそもそも、情報の集まりです。

 

生きてきた中で体験したことの記憶情報です。

 

失敗したということは、今まで成功した記憶情報がなかっただけのことです。

 

『現実世界』の失敗を、修正する方向へ動けばいいだけのことです。

 

 

 

でも、その方向へ向かうには、わたしの意識をその方向へ向けないと、動けません。

 

まず最初に、わたしの意識を『肯定』の流れに乗せる必要があります。

 

 

 

その方法が、『認める』ことです。

 

 

よく、「悲しいと思っているわたしを認めましょう。」とか、「辛いと思っているわたしを認めましょう」とか言われることがありますが、これは『否定』にあたります。

 

「悲しいと思っているわたしを認めましょう。」という言葉の奥には、

 

「悲しいと思ってはいけない。」という、否定が隠れています。

 

 

 

わたしは、この方法を何度も検証してみましたが、心が軽くなることはありませんでした。

 

感情や想いに意識を向けても何も変わりませんでした。

 

「悲しい」と思うのは、何か悲しいことがあったからであって、何もないのに悲しいとは思いません。

 

 

 

そこに気づいたので、わたしは想いや感情に意識を向けるのを止めて、

 

認めるのは、「そう思った」ことです。

 

 

 

 

例えば、

 

“あの時、Aさんが賛成してくれていたら、こんなことにはならなかったのに。” と思った時、

 

「そんなふうに思ってはいけない。」(=否定) ではなく、

 

 

“あの時、Aさんが賛成してくれていたら、こんなことにはならなかったのに。” と思ったよね。

 

「うん、思った。」(=肯定)

 

これでおしまいです。

 

 

 

 

『否定』をした場合、そのあとも、自我の幻想物語=自我の言い訳が続き、幻想物語は、どんどん膨らんでいきました。

 

ところが、「そう思った。」と、わたしが何を思おうが、そう思ったことを認めた瞬間、自我の幻想物語が創られることはなく、停止してしまいました。

 

 

 

 

人は、完全に認めると、言い訳をしなくなることに気づきました。

 

言い方を変えると、認めたくないから、言い訳をします。

 

 

 

 

多分、誰もが経験しているのではないでしょうか。

 

本当に自分が、心底悪かったと思った時は、

 

「本当に、すみませんでした!!」

 

と、これで終わるのに、

 

本当は、自分のせいではないけれど、ここでは謝っておいた方がいいだろうと思った時、謝ったあとも、頭の中ではブツブツブツブツ言っています。

 

 

 

 

 

自我の世界にいれば、言い訳を遣うのは当たり前です。

 

それが自我の世界だからです。

 

 

だけどわたしは、この自我の世界から脱出したいと思ったので、何を思おうと、自我の幻想物語が始まる前に、徹底的に認めることにしました。

 

 

 

スピリットであるわたし達が、人間としてこの世界で生きて、どうしても学ばなければいけないことは、

 

「あるがままのわたしを認めること。」が、できるか?

 

そんな課題があるように思います。