「わたしたちは、愛そのものである。」

 

 

そう書かれている本を目にした時、どういうことなんだろうと思いました。

 

 

 

ただ、何となくですが、

 

この世界でいう恋愛とか、赤ちゃんを見て可愛いと思うとか、動物を可愛いと思うとか、そういうことではないのだろうと思っていました。

 

 

 

 

じゃあ、わたし自身を愛することなのか?

 

と、考えた時、わたしを愛するとは、どういうことなのか?

 

と、疑問が次々に現れました。

 

 

 

 

どうなれば、わたしはわたしを愛していると言えるのか?

 

わたしを愛することが、愛そのものと言えるのか?

 

 

 

 

その疑問の答えが出ないまま、目の前に現れた課題を解き続けてきました。

 

 

 

 

 

自我の世界は、二元構造でできあがっています。

 

良い、悪い。

 

正しい、誤り。

 

嫌い、好き。

 

常に、何かと何かを比べることによって、自分の立ち位置を決めています。

 

 

 

わたしが基準です。

 

わたしが、100万円を持っていれば、200万持っている人のことを羨ましく思い、50万持っている人をみれば、わたしの方が優位だと思うようなイメージです。

 

 

 

自我の世界にいる限り、

 

観る相手によって、わたしは幸せにもなり、不幸せにもなります。

 

 

 

二元構造の世界にいる限り、「愛そのもの」の答えは出ないんだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前にいる誰かを、

 

「イヤなヤツだ。」

 

「嫌いなタイプだ。」

 

そう思う時、わたしは、その人のことを赦せないと思っています。

 

 

 

「イヤなヤツ」「嫌いなヤツ」には、絶対に優しくしたくありません。

 

「イヤなヤツ」「嫌いなヤツ」いは、絶対に、思いやりなど示したくありません。

 

「イヤなヤツ」「嫌いなヤツ」には、絶対に、わたしが美味しいと思う物を上げたくありません。

 

「イヤなヤツ」「嫌いなヤツ」には、絶対に助けてあげたくありません。

 

「イヤなヤツ」「嫌いなヤツ」とは、絶対に話しをしたくありません。

 

 

 

 

 

この世界は、『鏡』の世界だとわかった時から、

 

『鏡の法則』を、下手ながらも遣いだして検証を繰り返していきました。

 

 

 

わたしの中に、想いや感情が現れた時は、必ずもう一人のわたしがいることがわかり、もう一人のわたしに気づかない限り、自我を手放すことはできないんだと、わかるようになっていきました。

 

 

 

「イヤなヤツ」「嫌いなヤツ」

 

そこには必ず、選択しなかったもう一人のわたしがいました。

 

 

 

 

もう一人のわたしに気づくことができたとき、

 

今まで、「イヤなヤツ」「嫌いなヤツ」だったその人のことが、一人の人になっていきました。

 

 

 

一人の人になってしまいましたから、わたしは、

 

 

優しくできます。

 

思いやりを示せます。

 

わたしが美味しいと思う物を上げたいと思います。

 

助けてあげようと思います。

 

話しをしようと思います。

 

 

 

 

 

この体験を繰り返していくうちに、

 

目の前に現れたその人は、わたしそのものなのだと、『鏡』は教えてくれているのだと気づくことができました。

 

 

 

わたしが、わたしを愛する(=認める、受け入れる)ことができているかどうかは、現実の世界を観れば、一目瞭然となります。

 

 

 

ただ、「愛そのもの」の答えを知るには、まだこの『理』は、序の口です。

 

 

それでも、この『理』がわからなければ、先に進むことはできなかったとも思っています。