子どもが小さい時というのは、とにかく散らかします。
どんなに可愛いおもちゃ箱を買っても、
どんなに怒り倒しても、
おやつを餌にして、片づけさせても、直ぐにまた散らかします。
そんな散らかった部屋でも、主人が片づけようとしないので、
「なんで、いつもわたしばっかりなのよ。わたしだってそうやって、寝ていたいわよ!」
と、「そのわたしの気持ちをわかれよ!」と、わざと大きな音が出るように、おもちゃを片づけていたこともありました。
でもある日、ふと気づいたことがありました。
“そうか。わたしの望んでいることが、必ずしも相手が望んでいることとは限らないんだ。”
わたしは、『今』、この部屋を片付けたいと思っていますが、
主人は、『今』、何もせずに横になっていたいと思ってるんだ。
それからだったかな。
“わたしが片づけたいのだから、わたしがやればいいんだ。”
そう思うようになってからは、それほどいら立つことがなくなったように思います。
自我意識というのは、本当に自分中心ですから、
わたしが思っていることは、みんながそう思っていると思っています。
例えば、
わたしが生け花に興味があって、習ってみようかなと思っている頃に、知人達とランチに行って、たまたま綺麗な花をみかけて、
「綺麗な花ねぇ~」 とわたしが言ったら、Aさんも「ほんと、綺麗ね。」と相槌をうってくれたことを、
“Aさんも、花が好きなんだ。きっと生け花にも興味があるに違いないから、一緒に行かないか誘ってみよう。”
そう思って誘ったら、あっさりと断られて、
“なによ、花が好きだって言ってたくせに。”
と、ただその場の流れとして、「綺麗ね。」と言っただけのことなのに、
わたしの中では、
Aさんは、花が大好きで、生け花に興味がある人。
になってしまう。
それほど、自我意識は、我が中心です。
夫婦でテレビを観ていたら、マイホームのことがやっていて、
「マンションより、一軒家がいいよね。やっぱり。」 と、わたしが言ったことで、夫が、
「そうだね。」
と、ただそう言っただけなのに、いつの間にか、
“マイホームを建てようって言ってたのに、何もやろうとしてくれない。”
になってしまう。
わたしが思っていることは、みんながそう思っていて、みんなが賛成してくれる。
そんな思い込みの世界、
そんな自我の幻想物語の中で生きていたなぁ~と、ふと思う時があります。
今日、仕事が終わって、あと5分ほどで家に到着するというくらいになって、結構な量の雨が降り出しました。
家に到着して、
「雨が降って来たけど、2階の窓、開いてない?」と主人に尋ねると、
夕食を作っている最中でしたが、「僕は開けてないけど、確認してくるよ。」と、2階へ行こうとすると、長女が、
「私が見てくるよ。」
と、2階へ上がっていきました。
いつもは、他人事のように、パソコンに向かっているのに。
夕食を食べている時に、主人が長女に、
「明日は、勤務?」と、聞きました。
長女は、火曜日が定休日ですが、土日祝日は、シフト制で、必ずしも休みではないからです。
長女は、
「うん、仕事。三連勤」と、答えました。
長女は、今日まで四連休でしたから、わたしとしては、“三連勤なんて何てことないし、ちっとも大変じゃないのにな。” そう思いました。
でも主人は、
「三連勤か、頑張ってください。」
と、長女に言います。
“へぇ、そんなふうに言うんだ” わたしは、そう思いました。
今日、職場で、大きな荷物を台車に積んで運んでいたら、同じフロアで働いていますが、別の課の職員が、
「他に積む物はないんですか?」 と、まだ積む物があるなら、手伝いますよと言ってくれるのです。
それ以外に運ぶ物はなかったので、「ありがとう。」と言うと、わたしより先にエレベータの所へ行って、ボタンを押してくれて、自分は階段で登っていきました。
これらの出来事を観て、今日気づいたことがあります。
自我の世界にいた時は、ループの世界でした。
場面は違いますが、同じことを何度も何度も繰り返していました。
わたし自身、
「こう言ったら、絶対にこう言われるよな。」とか、
「こうすると、こうなるよな。」のように、まだ観てもいない未来を決定づけることが多くありました。
そして実際、そうなりました。
「こんな話をすると、絶対に怒ってくるよな。」
でも言わないわけにはいかないから言うと、
「ほらね。やっぱり怒ってきた。」
そんな世界にいました。
本来は、常に未知の世界です。
でも、自我は、自分が得た知識や体験が全てだと思っていますから、自分の記憶の中からデータを取り出して、自分の未来を、今まで体験してきたことから選択していきます。
今日は、ことごとく、その予想が外れました。
少しづつですが、自我の世界から脱出しているのかもしれない。
そう思える日でした。