『鏡の法則』という言葉を知った時、何のことかさっぱりわかりませんでした。
おまけに、『鏡の法則』を遣うことで、何が変わるのか、どうなるのか、何の意味を持つのかさえも、何もわかっていませんでした。
『鏡の法則』を遣えた時は、
観たくもない、話したくもない相手が、「ただの人」になっていました。
「こうでなければならない。」と思っていたのに、「あ、そうか!」と、全く別の捉え方ができるようになり、自分の意識の狭さを痛感しました。
どうしても思うようにならなかったことが、上手くいくようになりました。
わたしだけが、「ええやん」と思うのではなく、その事に関係する全ての人にとって、「ええやん」ということが起こりました。
わたしが観る現実世界が変わっていきました。
『鏡の法則』が遣えなかった時は、
何も変わりませんでした。
わたしは、
「何が違うんだろう。何故、上手くいくときと、上手くいかない時があるんだろう。きっと、何かコツのようなモノがあるに違いない。」
そう思いました。
検証していくうちに、100%遣えない時がわかるようになりました。
それは、
「相手を変えよう」とした時でした。
わたしの思うようにならないあの人を、わたしの思うようないい人になって欲しいために遣おうとした時は、1㎜も変化はありませんでした。
今思えば、当然なことです。
わたしの思うようにならないあの人は、わたしの裏側にいる、わたしそのものですから、変わるわけはないんです。
『鏡の法則』は、わたしの次元上昇によって遣い方が変わっていきました。
感情の炙り出しがあると、『鏡の法則』を遣って、何とか課題と答えをみつけようとするのですが、それを繰り返していくと、感情の炙り出しは、ほぼ無くなっていきます。
これがまた、
落とし穴でした。
最大の難所が待ち構えていました。
それは、
わたしの中に存在していました。
外の世界を観て、一瞬のうちに発動する自我の世界が存在していました。
コントラスト
ジャッジ
を、一瞬で思考するわたしがいました。
コントラストを遣ったり、ジャッジをするわたしを見つけると、そんなふうに思う自分はダメだと思うようになりました。
でも、そう思えば思うほど、苦しくなる自分に気づいたので、この方向は違うとわかりました。
「そう思ってもいいんだ。」
と、自分に言い聞かせるようにしましたが、これもダメでした。
何故なら、「そう思ってもいいんだよ。」は、否定だったからです。
そこからは、「そう思った。」に変えていきました。
でもまた、
落とし穴が、待ち構えていました。
「そう思った。」
に変えたことで、確かに抵抗が無くなるのはわかりました。
この方向は間違っていない。
でも、進まないんです。
「何かが違う。」
そう思いました。
どんなに、「あの人は、わたしそのものではない。」と思っても、『鏡の法則』を遣うことで、「わたしそのもの」だとわかることを何度も繰り返したことで、
どんなに抵抗しても、わたしが認めない限り、前に進めないことを心底わかるようになりました。
『鏡の法則』を遣いこなさないことには、この自我の世界を脱出できないんだということはわかりました。
でも、どんなに『鏡の法則』を遣っても、自我の世界にいるわたしがわかりました。
どうやったら、この世界から出られるのか。
何が違うのか。
コントラストやジャッジを遣うわたしがまだいる。
この時点で、否定していることにも気づきますが、自我の世界から脱出できない。
でも、出たい。
そして、ようやく掴みました。
コントラストやジャッジは、自我のわたしが保身の為に使っていたんです。
外の世界を観たわたしが、一瞬のうちに何にフォーカスをし、何を想い、その想いの裏側にあるわたしを見つけることに、意識を全集中させました。
「なに、あの人」
わたしの常識にない言動や行動をする人を見つけると、すぐさまこんな言葉を頭の中で発していました。
絶対にスルーすることなく、そう思ったわたしの裏側のわたしを見つけていきました。
自我の世界を脱出するカギは、
外の世界を観たわたしの中にありました。
まだ、わたしは脱出していません。
少しでも集中力をなくすと、直ぐに外の世界に意識が向きます。
無意識にできるように、継続していきます。