徹底的に、わたしの意識に意識を向けてみました。
その結果、今まで観察していたと思っていたことが、ゆるゆるだったことがわかりました。
「なに、それ」
「そんなこと、あかんやろ。」
「こんなもんでええやろ。」
「あぁ、またそんなこと思ってしまった。」
そんな想いが、常に発動していました。
わたしが赦せることは、OKだけど、それ以外は赦さない。
わたしが思ったことへの否定。
そんな想いがあったことが悪いとか良いとかの話しではなく、これらは全て学びだったんです。
「なに、それ」
表側のわたしが、外の世界を観て、そう反応した。
表側のわたしが観る世界は、裏側にいるわたしが創造した世界です。
せっかく、裏側のわたしが一対になろうとしているのに、それを誤魔化してスルーし続けていました。
「なに、それ」
そんな一言に何の意味があるの?
別に痛くも痒くもない。
その通りです。そう思うことなんて日常茶飯事です。
だけどわたしは、この自我の世界を脱出した世界を観てみたいと思っています。
そんなわたしにとっては、「なに、それ」という、この何でもない一言は、とても重要な一言だったんです。
わたし達は、常に何かを思い、何かを考えています。
そんなの当たり前のことなのですが、この宇宙には法則が存在しています。
『放出した意識とエネルギーは、必ず還って来る。』
この法則は、『引力の法則』と同じように常に存在しています。
人が使おうとしてもしなくても、『引力の法則』が存在しているように、『放出したエネルギーは必ず還って来る』という法則も同じように存在しています。
ただ、この放出した意識とエネルギーは、いつどこで、どんなタイミングで還ってきているのかは全くわかりません。
ただ仮に、必ず24時間後に還って来ると仮定してみます。
毎瞬毎瞬という言葉を、1秒1秒と置き換えてみます。
今、この瞬間の1秒に、わたしが『不安』という想いを持ったとします。
この『不安』に含まれる意識とエネルギーが、必ず24時間後に還ってくる。
次の瞬間の1秒に、わたしが『怒り』という想いを持ったとします。
この『怒り』に含まれる意識とエネルギーが、必ず24時間後に還って来る。
その『不安』や『怒り』は、同じ設定場面ではなく、人や場所、風景を変えますが、中身は24時間前と同じ『不安』や『怒り』が還ってきています。
でも、そんな法則が存在しているなんて知りませんから、人や場所、風景が変わっているので、自分が放出した意識とエネルギーが還ってきているとは、思いもしません。
「あぁ、またお金がない。」
「あぁ、また怒られた。」
自我の世界は、このループの中で生きています。
このループの中から脱出したいと思うなら、自分が放出する意識とエネルギーの方向を変える必要があります。
その為には、観察が必要になってきます。
観察は、外の世界と、自分の意識の世界を同時に観ます。
「なに、それ」
そう思ったわたしは、外の世界の何かにフォーカスをして、そう思った。
自我のわたしが正しいと思う以外の、わたしにとって、あり得ないことを、観たわけです。
外の世界は、ただ在るだけです。
フォーカスして、どう捉えるかは、わたしだけしか知りません。
「なに、それ」
この言葉の上に乗っているのは、『否定』というエネルギーです。
この言葉を発したまま、自我の幻想物語が始まると、尚更24時間後に還って来るエネルギーは増幅していきます。
「なに、それ」
と、思わないようにしなさい。という話しではなく、その言葉を思った瞬間、裏側のわたしを観ます。
“あぁ、わたしが一番正しくて、わたしの思う通りにしようとするわたしがいるねぇ。”
“うん、いるねぇ。”
わたしは、神様=宇宙の法則だと思っています。
この神様が一番嫌うのは、わたしがわたしに嘘をついたり、わたしを誤魔化したりすることのように思います。
だから、
わたしが、わたしの嘘に気づける意識を持つ。
だから、
わたしが、わたしの誤魔化しに気づく意識を持つ。
今日、母が施設に入所しました。
母が入所するというので、土日にかけて、孫夫婦やわたしの兄夫婦が訪問してくれました。
母が入所することに、誰も反対することはありませんでした。
年末年始には、外泊してみんなで集まったらいいねと言うと、母は「それまで生きとるやろか」と言っていました。
母を施設に送ってから、母の部屋に入ると、いつもあの位置に座ってこちらを見ていた母がいないことに、寂しさを感じていました。
“あぁ、寂しいと思ってるんだ。”
“うん、思ってる。”
そこへ母から電話が入りました。
「小さい水筒を忘れていないか」というその声が、まぁ元気そのもので、部屋の片づけをしているなか、職員の人がとっかえひっかえ部屋に入って来てくれて、色々話しをしていってくれると、大喜びです。
おまけに、
「元気が出てきたわ。来て良かったわ。」 と言います。
もう、笑うしかありません。
まるで母は、スピリットとしてのわたしとの関係の役割が終わったかのようです。
毎朝夕に、電話をした方がいいかなと思っていましたが、それはとんでもないわたしの思い上がりで、
母は、母で、自分の魂の羅針盤を歩いているようです。