わたしが観ている世界に、
わたしの意識が投影された時、重い周波数を遣って、感情というサインで教えてくれる。
そもそも重い周波数の感情は、
怒り、憎しみ、辛さ、悲しさ等であるために、
この感情に意識が向いてしまいがちです。
怒りという感情を感じて、
「あ、課題が投下された。」 と、わかっても、
怒りの感情の部分に焦点を向けてしまい、
「また、怒ってしまった。こうやって直ぐに感情を出してしまう。今度からは、気をつけよう。」
と、反省に終始してしまいがちです。
今回の怒りの原因が、職場での同僚に対してだとした時、
「今度は、怒らずに、相手の話しをよく聴こう。」
となって、職場では、特に今回の相手に対しては、意識を向けることはできるのですが、全く別の場面、例えば、家に帰ってからだと、また子供に怒ったりしてしまいます。
職場の人には、怒らないようにして、家族は怒っても構わない。
そんなことになってしまいがちです。
課題投下を反省だと勘違いしてしまうと、
今の職場の人には怒らないようになったけど、新人が来ると、また怒ってしまう。
ということになってしまいます。
課題投下の解をみつけた時は、
「そうか!そういうことか!」 とか、
「え?え? そういうこと?」 と、心の中で驚くような状態になります。
「反省します。」には、ならない。
課題投下の解は、その人の中にしかありませんが、
解を探す時、相手の言動や行動にフォーカスすると、見つけるのが難しくなります。
その人は、スピリットレベルで演じて、わたしに何かを観せてくれたわけです。
演じてくれたことで、わたしが「怒り」を感じたとしたら、
「怒り」という感情が現れるのは、どういう時か。
バカにされた時。
わたしの思うようにならない時。
わたしが誤魔化していたことや、ウソをついていたことを指摘された時。
やらなければいけないと思いながら、やろうとしていない自分を指摘された時。などでしょうか。
今回の「怒り」を感じた場面と、わたしが最近思っていたことを照らし合わせてみます。
自分が、何かについて、誤魔化していたことに気づいたら、
今後は、どんな場面を体験することがあっても、誤魔化そうとする自分の自我に気づいた時、ゼロ点に戻して、正直に、素直な方向へと舵を取ることができます。
いつも、誤魔化すという選択決定をしていたわけですから、自分が観ている世界には、誤魔化す人や、怒らせる人、怒ってくる人がいたはずです。
その、「いつも」の選択を、真逆の方向へと舵を取れば、自分が観る外の世界が変わり始めます。
反省はしますが、反省できたことが、課題投下の解だと勘違いしていれば、自分が観る外の世界は、いつまでも同じままです。
気づきが、自分が観る世界を変えてしまうという体験を繰り返せば、
気づけることが、喜びへと変わっていきます。
課題を解くことで、どんな世界を観る事ができるのかと、楽しみになっていきます。
課題をどんどん解いていくと、本来の道である『魂の羅針盤』が観えるようになり、生きることにブレなくなっていきます。
誰かの体験話しではなく、自分が体験すること。
宇宙の法則が、信頼そのものだとわかります。