自分が、やりたいこと、好きなことをしている時、
わたしの世界は、たった一人の世界になります。
比較する他者が、
比較する信念が、
比較する想いが、
一切ない世界になります。
『魂の羅針盤』に沿う生き方は、『無心』になることができるんだと、気づきました。
「幸せになりたい。」
そう思うのは、今のわたしに満足していなかったからです。
「あの人みたいな仕事に就けば、わたしも幸せになれるのかもしれない。」
「あの人みたいに綺麗になれば、わたしも幸せになれるのかもしれない。」
「あの人みたいに、会社の社長の奥さんになれば、わたしも幸せになれるのかもしれない。」
誰かの一部分しか観ていないのに、その一部分だけを剥ぎ取って、
「わたしより、あの人の方が幸せ」
そう、思い込み、
わたしの周りの世界が変われば、わたしは幸せになれるのにと、
わたしの人生なのに、全てが周り次第の、他力本願で生きていました。
わたしの、生きる方向を示してくれる『魂の羅針盤』
誰の羅針盤でもなく、わたしの羅針盤。
誰が、どんな生活をしていようと、
誰が、どんな仕事をしていようと、
誰が、どんな世界で生きていようと、
比較する必要など全くなく、
わたしは、わたしの羅針盤の指し示す方向へ舵を取ればいいだけ。
『無心』というと、
感情もなく、無表情で、誰とも関わりなく、淡々と生きるようなイメージがあるかもしれませんが、そうではなく、
自分がやりたいこと、好きなことに没頭していて、
時間も、周りのことも一切消えてしまう世界のことです。
そのやりたいことや、好きなことをする時間が終わってしまえば、再び現実の世界に戻ってしまいますが、
『魂の羅針盤』をみつけてしまえば、その世界が継続されていきます。
幸せに成る為に、
誰かの真似をしなくても、誰かと比較しなくても、
何者かになろうとしなくても、
『魂の羅針盤』を見つけることができた時には、
もうそこは、自我意識でいう幸せではなく、
全く別世界が、存在しています。
生きる基準が、幸せかどうかなど、全く関係のない世界です。
『魂の羅針盤』をみつけるには、自我意識が持つデータを削除していく必要がありました。
裏側にいるわたしを、表側のわたしが体験し、観察し、見つけていくことで、手放していく。=わたしの思い込み、信念で創られた自我を、偏りのないゼロにしていく。=データ削除。
データがあることで、思考は絶えずそのデータを、繰り返し再生していきます。
感情が、「データを削除するタイミングですよ。」と教えてくれていますから、『鏡の法則』を遣って、淡々と削除していきました。
思考は、再生するデータが無くなっていきますから、再生できなくなります。
データがありませんから、感情の炙り出しは必要なくなってしまいます。
感情の炙り出しは無くなっていきますが、現実世界は到来し続けます。
隠れていた自我が、思考を使って、出しゃばってきますが、それも対処可能になっていきます。
目の前に現れた現実を観て、『否定』が現れれば、ゼロに戻し、『肯定』の選択決定をしていく。
決定=行動となりますから、その決定の到達点までやりきる。
決定は、毎瞬です。
「そんなの、しんどい。」
そう思うかもしれませんが、自分をよく観察すればわかりますが、誰もが毎瞬決定しています。
その決定が、感情や想いからではなく、
ここから始まるタイムラインを見据えたうえでの『肯定』の決定をします。
結果を求めているのではありません。
どうなるかなど、誰にもわからないのです。
自我の世界だけです。
勝手に結果を決めつけて、そちらの方向へと舵を取っていたのは。
決めつけてしまうと、その方向へ向かっていきます。
表側のわたしと、裏側のわたしが、全く同じ方向へ向かうと、見事に現実の世界に具現化されていきます。
両方のわたしが、『否定』を選択すれば、『否定』の世界が観えてきます。
両方のわたしが、『肯定』を選択すれば、『肯定』の世界が観えてきます。
片方のわたしが、『否定』を選択し、片方のわたしが『肯定』を選択すると、抵抗が現れます。
『魂の羅針盤』は、毎瞬毎瞬進んでいきます。
イメージで言えば、
毎瞬毎瞬、電車が進んでいくような感じです。
現実世界では、朝起きて、ご飯を食べて、出勤して・・・のように、何も変わらない体験をしているかもしれませんが、
意識の世界の、この『魂の羅針盤』という線路も同時に平行移動しているように思います。
この線路の上に乗せたいと、ガイドは必死になって、愛図を送ってくれています。
だのに、その線路が観えないわたしは、
自我という重荷を背負って、歩きにくい道を歩いてました。
自我が強い = 辛苦が強い = 線路から離れている位置
『魂の羅針盤』は、我が道を行く。ではありません。
調和とバランスの世界へと向かっています。