誰かとトラブルになって、腹が立って、今まで我慢していたことが、堰を切ったように溢れ出し、
「こんなことは言ってはいけない。」と我慢の蓋で閉じ込めていた感情や想いが、ダムの放流のように、一気に流れ出す。
こうなるともう、ゼロからのリスタートはできなくなります。
自我は、普段なら、
「ああすればこうなるから、その結果きっとこうなるから、そうなるのはイヤだから止めておこう。」
と、まだ到来していもいない未来を、勝手に自分で幻想物語を創って、自分の感情や想いと折り合いをつけようとするのに、
勝手に自分で創った幻想物語の中で、我慢に我慢を重ね限界に達すると
何かのトリガーで、必ず爆発します。
それは、自分を守るしくみでもあるように思います。
そのまま放置すれば、膨らませ過ぎた風船のように、崩壊してしまうしくみがあるように思います。
自我は、わたしが正しいのであって、間違っているのはあなただと、
わたしを不快にしているのは、あなただと言い切りますから、
どうあったって、相手の立場になった時のことや、相手への思いやりなど思いつきもしません。
相手に対する感情や想いが一気に噴き出し、後のことなど考える余裕もありません。
あれだけいつも損得を考え、
めんどうなことはやらない選択をしているのに、
感情や想いが優位になると、そのことさえも忘れてしまい、
我慢に我慢を重ねた今までのことを、
今の出来事と全く関係がなくとも、言いたい放題、やりたい放題になります。
この先の到達点は、
誰も信頼できないという創造世界、
相手を赦さないという創造世界、
自己否定という創造世界、
等々、わたしが、どんな世界を観ることになるのか、決まってしまいます。
そして、これを繰り返すのが、自我の世界です。
同じ選択をし続ければ、同じ結果になるのは、至極当然です。
人物や背景は変わるかもしれませんが、到達点は同じです。
イメージで言えば、
恋愛ドラマは、誰が演じようと、色々な出来事があろうとも、恋愛ドラマです。
刑事ドラマも、誰が演じようと、どんな事件が起ころうと、加害者と被害者がいて、どんな関係性があったのかを調べて、犯人を特定していきます。
それと同じように、
家庭や職場、公共の場等々、場所は変わっても、必ずその背景を遣って、誰かとの
依存物語、執着物語、自己否定物語、無価値観物語等々を、繰り返し体験しているのが自我の世界です。
この世界から脱出するには、感情や想いが、幻想なんだと、実体験していくことが必要になります。
感情は、課題投下のサインです。
胸の中に、感情が現れたら、ストップです。
少しの感情でもストップすることができるようになれば、課題を解いて解をみつけて、
「そういうことだったのか!」
と、学びと気づきが起こり、その後の言動や行動は、ゼロ地点から開始することができます。
ゼロ地点に立つことができれば、あとは『肯定』の流れに乗る言動や行動をしていけば、宇宙の采配である、バランスと調査の世界が創造されていきます。
その采配は、到底人間意識では不可能な世界です。
ですが、感情や想いが、胸の中で渦巻いているまで放置していると、ゼロ点に戻すことは、とても難しくなっていきます。
そんなふうに、感情が現れたら課題投下だと、解を見つけ、学んできたことで、
わたしの頭の中で喋っていることは、
わたしが生きてきた中で知った情報だということがわかってきました。
何故なら、わたしが知っていることしか、喋っていないからです。
わたしが、そうだと信じて捉えたことしか、喋っていないからです。
自我を手放していくと、この幻想物語が創られなくなっていきます。
創られ始めても、直ぐに気づくので、物語は創られなくなっていきます。
そのことで、どんなメリットがあるのか?ですよね。
まずは、ネガティブな感情に振り回されることが無くなっていきます。
わたしが興味があることは、『霊性進化』一択です。
そのことで自問すると、叡智と繋がります。
この時点では、既に『魂の羅針盤』の
指し示す、光の道に乗っているので抵抗がありません。
抵抗がないので、とても楽なわけです。
辛苦を感じるのは、自分が本当の自分自身に抵抗しているからです。
外の世界にいる人たちは、鏡となって、その抵抗が何かを映し出してくれています。
その人たちがいなければ、わたしは、わたしの無意識の世界=裏側のわたしを観ることはできず、観る事ができなければ、気づくことも学ぶこともできないわけです。
外に観える人たちに、わたしの望む人になって欲しいとどんなに望んでも、
この宇宙の法則には、『鏡の法則』が存在し、
わたしが、裏側のわたしに気づかない限り、わたしの裏側の世界を観せ続けられるだけです。
裏側のわたしとは、そうだと思い込んだ世界です。
今わたしは、自我の思い込みに気づいたら、陰陽一対にして削除(=ゼロ=フラット)しています。
どんな世界が観えるのか、
そこに興味があるからです。