『表側にいるわたし』と、『裏側にいるわたし』。

 

 

『表側にいるわたし』だけを知っていた、わたしと、

 

『裏側』にもわたしがいることをを知った、わたし。

 

 

 

 

外からわたしを観れば、何も変わらないわたしがいるのでしょうが、

 

『表』と『裏』のわたしを知ったわたしの世界は、とんでもない別世界にいます。

 

 

 

 

 

人間社会の中で生きてきたわたしは、

 

常に、どちらが正しいか、間違っているか。

 

常に、どちらが得で、どちらが損か。

 

常に、どちらが良いことか、悪いことか。

 

 

そんなふうに、必ず対比することで、物事を判断してきましたし、選択をしてきました。

 

 

 

 

それは、目の前に観えることだけでなく、わたし自身のこともそうでした。

 

 

あの人より、わたしの方が正しい。

 

あの人より、わたしの方が損をしている。

 

あの人より、わたしの方がいい人。

 

 

 

対比させる相手によって、わたしが優位になったり、劣位になったりして、わたしの存在がどこにあるのかわからない。

 

 

 

常に、コントラストの世界で生きていました。

 

・・・というより、コントラストの世界で生きていることを認識することはありませんでした。

 

 

 

 

 

自我を手放す時、『鏡の法則』を遣いますが、

 

結局のところ、対比している思い込みは何かを探すことでもありました。

 

 

 

 

自我を手放すタイミングは、感情という振動でサインがきます。

 

最初の頃は、悔しい、悲しい、辛い、怒り等々の感情という形でサインを知ることになりましたが、

 

自我を手放し続けていくと、こういう感情ではなく、「ドンッドンッ」という感覚の振動が胸に伝わります。

 

「あぁ、きたな。」

 

そんなふうに思います。

 

 

 

この体験で、

 

自我優位の時は、この振動と同じ周波数を持った感情がくっついていただけで、振動と感情は別々のモノだったということに気づきました。

 

感情に振り回されるのは、自我の特徴なんだと気づいた時でもありました。

 

言い換えれば、感情に振り回されているのであれば、自我の世界にどっぷりと浸かっていると、自分の現在地がわかるようになりました。

 

 

 

 

ただ、自我を手放し続けて、どんどん感情に振り回されなくなると、逆に自我に気づくことが難しくなっていきました。

 

感情が現れた方が、自我が発動したとわかりやすかったのに、感情が現れないと、無防備になり、振動くらいなら、やり過ごすことが可能になっていったのです。

 

 

 

頭の中で、過去の出来事を思い出したり、報道やSNSを読んで、ジャッジしているわたしに気づけない。

 

この世のしくみの『理』を知ったことで、わたしが正しいと思い込み、

 

知らないうちに、自我の世界へ逆戻りしている自分に驚いたりしていました。

 

 

 

 

そういうプロセスを通過しながら、

 

裏側にいるわたしが、表側にいるわたしが観る外の世界を創り出していたことに気づいていきました。

 

 

 

宇宙の法則の上に成り立っている『現実世界』と『意識の世界』が存在し、

 

宇宙の法則の流れに乗れば、抵抗のない『肯定』の流れに乗ることができます。

 

 

 

『表側にいるわたし』と、『裏側にいるわたし』が、対比した想いを持っていると、『肯定』の流れに乗ることができない法則があります。

 

流れに乗せるには、陰陽一対にしてゼロに戻していく必要があります。

 

 

 

 

『裏側にいるわたし』というのは、『表側のわたし』にとって、絶対に成りたくないわたしです。

 

絶対に成りたくないから、『表側のわたし』で生きたいと選択しています。

 

 

 

 

どんな選択をして生きていても、それは自由な世界なのですが、

 

自我の世界からは、絶対に脱出できない。= 感情に振り回される世界から脱出できない。

 

 

 

 

その『理』がわかったので、わたしは、ひたすら自我を手放していきました。

 

 

でも、壁にぶちあたりました。

 

いえ、ぶち当たっていることに気づかないくらい、感情に振り回されることが無くなってしまったので、油断していたと言った方がいいかもしれません。

 

 

 

わたしの頭の中で、ブツブツと誰かと比較したり、誰かを評価していることに気づいたのです。

 

 

頭の中は静かになりましたが、ブツ・・・ブツ・・・ブツ・・・と、気づかない程度のコントラストが湧いてくることに気づきました。

 

 

 

 

慣れ親しんだ自我から、脱出したいと思えば思うほど、自我がわたしの足を引っ張りました。

 

 

「どうやったら、この最後の壁を乗り越えられるんだろう。」

 

 

 

どうなるのかわからないけれど、

 

それが『理』に沿ったことかどうかわからないけれど、

 

とにかくやってみよう。

 

 

そう決めて、

 

何を思おうが、そう思ったことを、そう思ったと認めることを、ひたすら続けました。

 

完全に認めてしまうと、幻想物語が創造されないことに気づきました。

 

 

コントラストも、自我の幻想世界の中に存在していました。

 

 

完全に認めてしまう → 自我の幻想世界が生まれない → コントラストの消滅

 

 

こんな流れが始まりました。

 

 

 

 

 

今日、息子の友人から、10年ぶりに連絡がきました。

 

息子に手を合わせに行きたいと言ってくれて、来月来てくれることになりました。

 

 

そして今日もう一件、

 

3月に出版の為の原稿を提出して、校閲等々で本のデザインを決定するのは、9月か10月頃と言ってみえたのに、レイアウトも終了し、デザインも決めたいと連絡が入り、Zoomで打ち合わせすることになりました。

 

 

歯車が動きだした感覚です。

 

でも、以前のように一喜一憂しないわたしがいます。

 

 

それよりも、どんな流れができていくのか、その世界を観たいと思います。