わたしが、神様にお願いする時は、どんな時だっただろうかと思い出してみました。

 

 

望みがあって、願いを叶えたい時。

 

自分では、どうすることもできない時。

 

未来の不安が、少しでも解消して欲しいと思った時。

 

 

神様にお願いして、100%願いを叶えてくれる保証などどこにもなかったのに、何故か、お願いしたくなり、お願いすることによって、安心感を得ようとしていました。

 

 

神社へ行って、改めてお願いする時というのは、初詣であったり、受験の時であったり、妊娠や出産、就職の時など、自分の人生にとって節目になるような時でした。

 

 

 

でも実際には、日々、何かをお願いしています。

 

 

「〇〇にならないかなぁ」

 

「こうなったらいいのになぁ」

 

「そうなると困るなぁ」

 

 

自分では、お願いしているとは思っておらず、独り言のように、心の中でささやいていて、ささやいていたことさえ忘れてしまっている。

 

でも、実際には、このお願いしているとは思っていないことの方が、叶ってしまっています。

 

 

 

 

 

10年前に、息子が10万人に一人という希少な癌を発症し、治らない病気だと知ったわたしは、「治って欲しい!」と、最強に強い願いを毎日々、神様にお願いしていました。

 

 

それは、

 

 

 

もし、わたしの息子の命を奪うのであれば、あなたのこと(神様)も容赦しないという、脅しのようなものでした。

 

 

抗がん剤治療をするために、9月に入院して、4クールのうち3クールが終了しても、息子の癌は、小さくなるどころか、どんどん大きくなり、1~3クールが爆弾であるなら、4クール目は原爆並みの抗がん剤を使用したのに、息子の体がボロボロになっただけで、癌はビクともしませんでした。

 

 

世間は、12月に入り、クリスマスの音楽がそこらじゅうで流れていました。

 

わたしは、

 

「クリスマスなんて、どうだっていい!それよりも息子を治してよ!1億回お願いすれば治してくれるなら、わたしは何億回だってお願いする!」

 

そんな無理難題を、神様にぶつけるだけぶつけて、あとは何も望まなかった。

 

 

 

抗ガン剤治療が効果がないのなら、家族と一緒にいさせようと、退院することにし、フォローは、わたしが務めていた総合病院で引き継いでもらいました。

 

ちょうど緩和病棟が立ち上がったばかりで、緩和治療専門外来を受診することができ、プレドニンを処方してもらったことで、体中の浮腫みが尿となって排出されるようになって、1日お茶碗一杯のご飯も食べられなくなっていたのに、朝から、ご飯に目玉焼き2つに、ベーコンにと、モリモリご飯が食べれるようになり、ゲームまでするようになり、まるで癌が消えてしまったのかというほどの変化を見せてくれました。

 

その体調の良さは、亡くなる前日まで3ヶ月近く続きました。

 

 

後で気づいたのですが、体調が良くなり始めた日は、クリスマスだったんです。

 

 

 

 

 

父が亡くなるタイミングも、凄かった。

 

父は、昨年の8月20日に91歳で亡くなりましたが、採血データだけをみれば、今生きているのが不思議なくらいでしたが、いつも通りに自分でご飯を食べ、おやつを食べていました。

 

20日の朝方になって急に、「気分が悪い。」そう言いだし、そのまま流れるように午後3時頃に亡くなりましたが、

 

父は、大学病院へ自分の体を献体として提供予定にしていたのですが、献体として受け取ってもらうには、感染病ではないことや、土日祭日、年末年始はダメだとか、色々条件がありました。

 

わたしの中では、あれだけ希望していたのだから行かせてあげたいと思っていましたし、その他にも、仕事のことや亡くなる時間、兄の仕事のこと等々、そんなに遠い未来ではないうちに亡くなるであろうことはわかっていましたから、その後のことも色々考えていました。

 

それはわたしだけではなく、家族や親戚も、それぞれ考えていたと思います。

 

その結果、

 

父の亡くなった時間は、わたし達家族にとっても、大学病院にとっても、全てがOKのタイミングでした。

 

兄は、父のことを、「観音様や。」と、訳の分からない褒め方をしていました。

 

 

父の死のタイミングなど、誰もコントロールすることなどできませんし、それはわかっていますから、「〇〇に亡くなって。」などという願いはしません。

 

でも、「こうなればいいなぁ」 と、心の中で、ささやいていたことはありました。

 

 

わたしにとっては、父が亡くなった日が、たまたまそうだったのではなく、

 

父の死に関わる全ての条件が揃った日と時間に、父が亡くなったように思います。

 

 

 

息子が亡くなった日も、3月20日で春分の日だったために、家族全員がいました。

 

 

 

 

 

ここに書いた父のことも息子のことも、ほんの一部です。

 

そして、父と私、息子とわたしの関係性も、わたしにしかわかりません。

 

 

 

わたしの色んな体験の中での、父や息子がいます。

 

それは、どれだけ細かく文章にしたところで、説明のしようがないのですが、

 

 

 

色んな体験を、わたしは宇宙の法則に当てはめてみました。

 

 

 

 

 

結局のところ、わたしがどうのこうのできる世界ではない。ということです。

 

わたしにできることは、ただひたすら

 

 

『魂の羅針盤』が導いてくれる道の上を歩いていくこと。

 

 

 

調和とバランスの、宇宙の采配に委ねること。

 

 

 

 

 

 

神様を追いかけなくても、

 

わたしが、『魂の羅針盤』の道を歩いているなら、

 

それが一番、神様に近い。

 

 

 

 

神様に、どんなに願っても、

 

その願いが叶う方向へ、わたしが舵を取っていない限り願いは叶わない。

 

願いは、神様に叶えてもらうのではなく、

 

わたし自身が叶えていくこと。

 

 

 

コツは、『抵抗しない』こと。