「抵抗しなければいいのに。」
そう言われても、
わたしはいったい、何に抵抗しているのかわかりませんでした。
そもそも、『抵抗』の意味がわかりません。
やりたくないことなのに、やらざるを得ないから、無理やりやることが抵抗なのか。
働きたくないのに、生活の為に働いていることが抵抗なのか。
食べたいのに、食べれば太ってしまうと、我慢していることが抵抗なのか。
感情をぶつけたいのに、グッとこらえることが抵抗なのか。
体調が悪くて、みんなに迷惑をかけるとわかっているのに休むことが抵抗なのか。
家事や子どものことを、もっと主人に協力してもらいたいと思いながら、それが言えないことが抵抗なのか。
『本当のわたし』 を見つけるまで、答えは出ませんでした。
外に観える世界を観て、今までの経験や知識を頼りに行動をして、
還ってきた反応が、わたしにとって『不快』であれば感情が動き、
その感情を抑えて言葉を発するか、行動をするか。
その感情を、爆発させて言葉を発するか、行動をするか。
どちらにせよ、その後も、その出来事を引きずって、
「わたしは悪くない。」 と、悶々とし、時間が記憶を薄れさせてくれるのを待つ。
それが、「わたし」 でした。
でも、「もう一人のわたし」が、いつもいたことも事実です。
「本当は、仲良くなりたいんじゃないの?」
「本当はあの時、まっ、いっか。っていい加減にしたのが、今回の結果になったってわかってるんでしょ?」
「自分に自信がないから、他の人に押し付けて、自分は別のことをして、そこから逃げたってわかってるんでしょ?」
「見て見ぬ振りをして、あの場を通り抜けたよね?」
「相手の為と言いながら、自分が見たくないから、聞きたくないから、早く何とかして欲しいと思っていたよね?」
誰も知らない、わたしだけしかわからない、
『その時に思ったこと。』
今さら言えないし、
言ったところで、もう過ぎてしまったことで、どうにもならない。
今だからわかります。
『本当のわたし』は、常にいました。
わたしが抵抗していたのは、『本当のわたしの想い』に対してでした。
そして、抵抗させていたのは、『わたしの自我』でした。
傷つきたくない。
いい人だと思われたい。
めんどうなことには、関わりたくない。
損はしたくない。等々
そんな想いが、
『本当のわたし』 を押しのけて、『自我のわたし』が、前に出てきていたんです。
ところが、この現実世界は、『自我のわたし』には、とても生きにくいシステムになっていたのです。
この世界は、
『現実世界』と『意識の世界』が、循環することで、とてもスムーズな流れになり、何も抵抗するモノ、遮るモノがなくなってしまいます。
『自我のわたし』は、『本当のわたし』ではないので、
この循環する流れを、せき止めてしまいます。
「何故、上手く行かないんだろう。」
「なんで、いつもこうなるんだろう。」
「ずっと、これで上手くいっていたのに、なんで上手く行かなくなったんだろう。」
そんな時は、『自我のわたし』が、前に出しゃばっています。
「本当のわたしの言う通りにするなんて、なんかしゃくに触るし、めんどうなことに巻き込まれそうだし、いつもわたしが損をするように思えるわ。」
『本当のわたし』で生きた体験がなければ、そう思います。
「じゃあ、わたしはいったい、何処にいけばいいの?」
『本当のわたし』が、本当のわたしなので、『自我のわたし』は消滅してしまいます。
もともと、『本当のわたし』だけしか、いなかったんです。
『自我のわたし』が、思考を使って、あれこれ考えても、答えをみつけることはできません。
『本当のわたし』が、どれで、『自我のわたし』がどれなのかを知るには、
徹底的に、自分を観る作業が必要です。
それは、反省して落ち込むことや、
自分が、こんな人間だからと、責める作業ではありません。
『鏡の法則』を遣って、『裏側にいるわたし』を、淡々と見つけて陰陽一対にしてしまう。
「淡々と」という言葉を使うと、感情中心の自我のわたしは、
「そんな薄情な。」とか、「そんな思いやりのないこと。」とか言ってくるかもしれませんが、それは全く逆の『理』です。
『裏側にいるわたし』を見つけていくことが、
何の濁りもない、クリアな思いやりが発動します。
『抵抗』のない世界は、何の摩擦(辛苦)も起こりません。