『鏡の法則』を、知っているか、知らないか。
『鏡の法則』を、遣うことができるか、できないか。
『鏡の法則』を、100%遣っているか、遣っていないか。
自我の世界を脱出することができるかどうかは、この『鏡の法則』が、カギを握っています。
自我意識は、どうしたって、自分中心で物事を捉えようとします。
自分が正しいと思い込んでいるので、
都合のいい時は、『鏡の法則』を遣いますが、
都合が悪くなると、遣わない。
でも、それさえも、気づきません。
『鏡の法則』の存在を、確たるモノにするには、
やっぱり体験だと思います。
『鏡の法則』を遣ったら、
どうやっても上手くいかなかったことが、
「えっ、えっ、えっ・・・」
と、「そんなことが本当にあるの?」
と、驚くほど物事が進んだり、
「えっ、何で?あんなに何度言ってもダメだったことが、わたしの望み通りなるの?」
と、信じられないような体験をすることが、
『鏡の法則』を、遣いこなしたいと思う、きっかけになるのだと思います。
『鏡の法則』を遣うと、わたし自身か、外に観える世界が変わります。
言い方を変えれば、
わたし自身か、外に観える世界が変わらないのであれば、
『鏡の法則』を遣っていないことになります。
『鏡の法則』を遣うことで、自我を手放していくことになります。
自我を手放し続けていくと、
感情が炙り出されることは、ほとんどなくなります。
たとえ、感情が現れたとしても、
課題投下のサインだとわかっているので、その感情に溺れることも、振り回されることもなくなってしまいます。
『鏡の法則』を遣わなければ、自我の世界を脱出できないのは、
『鏡の法則』を遣う以外、裏側にいるわたしを知る方法がないからです。
『鏡の法則』を遣えるには、素直さが必須条件になります。
自我の世界を脱出するにも、素直さが必須条件になります。
『鏡の法則』を遣えない理由としては、
わたしが正しいと思い込んでいることが上げられます。
目の前で起こった出来事に対して、どちらが正しいとか間違っているとかを『鏡の法則』は、教えてくれているわけではないのに、
そこに意識が向いていくことが考えられます。
直ぐに腹を立てる人が、目の前にいるとしたら、
「わたしが、腹を立てる時は、どんな時だろう。」
と、考えてみます。
「あぁ、わたしが誤魔化したところを指摘された時、腹が立つなぁ」
「自分でもわかってるけど、それができないでいる時に、それをやるように言われると、腹が立つなぁ」
「そうか!誤魔化さないこと、やるべきことはやってみよう。」
と、実際に自分が、誤魔化そうとしようとした時、正直になることや、
やるべきことは、直ぐにやってみるという行動に出ると、
どんどん、外に観える世界が変わってきます。
当然と言えば当然です。
正直になるから怒られることはないし、直ぐに行動に移していれば、それをとやかく言われることはなくなりますから。
やがて、わたしの目の前で腹を立てる人は、いなくなっていきます。
『鏡の法則』は、目の前で起こった出来事を通じて、何かを教えようとしてくれています。
あの人が怒るのは、短気な性格だからとか、家庭でのトラブルを持ち込んでいるからだとか、そんなことを教えてくれているわけではありません。
『鏡の法則』を遣うことで、
表側にいるわたしと、裏側にいるわたしが観えるようになってきます。
表側にいるわたしは、裏側にいるわたしが創造した結果を観ています。
表側にいるわたしは、目の前に起こった現実を観て、
裏側にいるわたしが、何を創造したのかがわかるようになっています。
裏側のわたしのことをわかれば、手放していくことができます。
手放していくことができれば、表側のわたしと裏側のわたしは一致するようになっていきます。
自分が今、どんな世界にいるのかも、『鏡の法則』を遣えるようになると、わかっていきます。
『鏡の法則』があることで、わたし達は守られています。
本当に、素晴らしい法則だと思います。