ありのままのわたしを受け入れる。

 

あるがままを受け入れる。

 

 

 

この言葉の持つ『理』を、みつけることができるまで、随分かかりました。

 

 

 

一見、簡単なように思います。

 

 

 

ありのままのわたしを受け入れるのだから、

 

泣いてるわたしも、怒っているわたしも、喜んでいるわたしも、全てそのままでいいんだと、そう思っていました。

 

 

泣いてるわたしがいたら、

 

「いいよ、泣いていて。泣きたいんでしょ?」

 

そういうふうに、わたしがわたしを納得させることができることを、

 

ありのままのわたしを受け入れると思っていました。

 

 

 

 

 

感情は、課題投下のサインだとわかるようになった時、

 

だったら、泣いているわたしを納得させることは、矛盾があると思い始めました。

 

 

 

 

 

自我優位であった時、

 

外に観える世界が、自分の納得できるものでないと、

 

納得できるように、あの手この手を使おうとしていました。

 

 

 

私は悪くないのだから、相手に謝ってもらいたいとか、

 

家事や子どものことで、てんてこ舞いになっていると、

 

そうさせているのは、主人や子どもであるから、主人や子どもになんとかしてもらおうと思っていました。

 

 

 

今思えば、抵抗しまくり状態です。

 

わたしの思うようにならない世界に、イライラばかりしていました。

 

そのイライラを抑える為に、自分で自分を納得させていた。

 

そんな毎日でした。

 

 

 

 

 

 

自我の世界の存在を知るようになってからも、

 

『あるがまま』を、どう捉えていいのかわかりませんでした。

 

 

 

 

『あるがまま』が、宇宙の法則の流れに乗っていることは、理解することができましたが、腑に落とすことができませんでした。

 

 

 

 

 

わたし達は、道徳を習ってきました。

 

 

人には、優しくしましょう。

 

思いやりを持って接しましょう。

 

困っている人をみかけたら助けましょう。等々、

 

 

この道徳が良い、悪いのお話しではなく、

 

この道徳は、自我のわたしを、いい子ちゃんにするには、最適だったわけです。

 

 

 

 

自我のわたしは、わたしが世界の法律だと思っています。

 

でも、鏡の法則を遣うと、

 

表のわたしの知らなかった、裏のわたしの存在に気づきます。

 

 

 

「わたしは、絶対に間違ってなんかいない。」

 

「あんなに、人のことをバカにするなんて、最低!」

 

と思っていたのに、

 

それが、裏のわたしだと気づきます。

 

 

 

最初は、

 

そんなわたしがいるなんて、絶対にそんなことない。

 

わたしの大嫌いな人に、わたしがなっているわけがないと思います。

 

都合の良い時だけ『鏡の法則』を遣おうとします。

 

 

 

 

 

 

やがて、霊性進化プロセスを歩むうちに、

 

『鏡』を遣えるようになって、

 

「あぁ、そういうわたしがいるね。」

 

と、認めることはできるようになるのですが、

 

「いいよ、そんなわたしがいても。」と、

 

そんなわたしを否定しているわたしに気づくようになりました。

 

 

どうしても、善悪、正解・不正解の位置に、意識を持っていってしまっていたのです。

 

 

 

 

『あるがまま』とは、そのまんまで良かったんです。

 

「わたしを否定しているわたしがいるよねぇ」

 

「うん、いるね。」

 

 

「善悪、正解・不正解で、判断しているわたしがいるねぇ」

 

「うん、いるね。」

 

 

 

 

 

わたしの世界に、何が起こったとしても、

 

それが、わたしの分相応です。

 

 

 

わたしにとって、都合の悪いことが起きたことが、分相応なのではなく、

 

そこにある課題が分相応です。

 

 

 

 

分相応の課題をクリアしていけば、次元上昇し、

 

課題もレベルアップしていきます。

 

 

 

感情で翻弄される世界で生きるのが『不快』であるならば、

 

感情は、課題投下のサインだと、徹底的に『鏡の法則』を遣って、次元上昇し、

 

自我の世界を脱出するほか、方法はないと思います。

 

 

 

わたしの体験上ですが、

 

自我の世界にいては、『あるがまま』の理を捉えることができないんだと、そう思います。