自我の世界を、俯瞰する位置に立つと、自我の構造が観えてきます。

 

 

個々人が、それぞれの世界で生きていて、

 

誰一人として同じ世界を生きてはおらず、

 

誰も、個人の観ている世界を観るコトはできないのに、

 

誰もが、自我の構造は同じであることに気づきます。

 

 

 

 

自分の捉え方は、変えられないのに、相手には変えろと言う。

 

自分が傷つけられるのは、許さないけど、わたしが傷つけるのは許される。

 

わたしがあなたを嫌いになるのはいいけれど、あなたがわたしを嫌いになるのは許さない。

 

相手には、余計なことは言うなと言うのに、自分は余計なことを言ってもいい。

 

家族は傷つけてもいいけど、他人は傷つけてはいけないと言う。

 

何で、あの人が嫌いなのかを尋ねると、見事に裏側にいるわたしを言い当てる。

 

あながた損をするのはいいけど、わたしが損をするのはイヤ。

 

わたしは、面倒なことはしたくないけど、面倒なことをやろうとしないあなたに腹が立つ。

 

わたしの話しを聴いてくれないあなたは、優しくない人だけど、わたしは、あなたの話しは聴きたくない。

 

優しくできない、怒っているわたしはイヤだと言いながら、優しくしないし、いつまでも怒ってる。

 

頭の中は、いつもゴチャゴチャ考えていて、話す内容はコロコロと変わっていく。

 

 

 

 

環境設定や、人物は違うけれど、全く同じ構造をしている。

 

それがわかるのは、

 

かつてのわたしが、そうだったから。

 

 

 

そして、本当にわたしたちは、一つの意識なんだと思い知らされる。

 

 

 

そうならば、

 

自我の世界を脱出する構造も同じはず。

 

 

 

トリガーやタイミングは、人それぞれであるだろうけど、

 

おそらく、脱出する構造は同じ。

 

 

 

 

感情がサインであることや

 

胸にモヤモヤを感じること。

 

モヤモヤが無くなると、スッキリすること。

 

何かに気づいて、

 

「そうだったのか。そういうことなのか。」

 

と、腑に落ちれば、次元上昇することも、

 

 

 

次元上昇するには、

 

気づきや学びがあって、それを何度か実行して、ある一定の穏やかな期間があって、

 

また、課題投下があって、気づきや学びが起きて・・・

 

ということを繰り返していくことも、

 

 

 

 

 

 

頭の中に同じ映像が繰り返されたり、

 

あの人からも、この人からも、同じことを言われたら、

 

それが、解をみつけるヒントだったりすることも、

 

 

 

 

イヤだと思う事や、面倒だと思って、今まで逃げていたことから逃げずに向かっていくと、必ず次の扉が開くことも、

 

 

課題投下は、後から来るのではなく、

 

今、この瞬間に来ることも、

 

 

 

課題を無視し続けると、何度も同じ体験をし、徐々に体験がきつくなってくるのも、

 

 

 

自我という世界の存在を知ることになるのも、

 

 

自我の世界を超えたいと思うのも、

 

 

全てを、あるがままに受け入れることができるという理がわかるのも、

 

 

『魂の羅針盤』の道の上を歩くのが、一番自分にピッタリの生き方だとわかるのも、

 

 

 

 

個々人、それぞれが、それぞれの環境で、

 

それぞれのトリガーとタイミングはあるけれど、

 

霊性進化のプロセスの中での、

 

スタンプラリーのような、スタンプを押してもらえる到達点は同じなんだろうと思います。

 

 

 

 

ただ、とても面白いと思うのは、

 

学校でのように、「〇点を取れれば、スタンプを押してあげるよ。」

 

というしくみはなく、

 

『理』を知って、尚且つそれを活かした体験を、継続しているかどうかにかかっている。

 

 

 

1㎜でも意識の向け方を間違えば、

 

絶対に、前に進めないようになってる。

 

 

 

法則通りに動く世界。

 

自我意識は、通用しない世界。

 

 

 

とても、シンプルな世界。