直ぐに、望む結果を観たい。
直ぐに、望む通りにして欲しい。
この世界の、どこを観ても、そんな理はないのに、そう思いました。
自分の望む世界に到達している人を観ると、
直ぐに、その人のように成りたいと思いました。
それも、外に観える形だけを見て。
その人が、どれだけの体験をして、
どれだけそのことに一生懸命に取り組んで、
どれだけそのことを考え、
どれだけ試行錯誤してきたか。
そんなことは、一切無視をして、
わたしが観る、その一場面を見て、
「あんなふうに成りたい。」
よく、そんなふうに思ったものでした。
霊性進化のプロセスの中で、確実に習得したことがあります。
それは、
肉体のわたし(=思考=自我)に舵を取らせなくなったこと。
家事や仕事等々、
わたしの日常の全てを、肉体のわたしに采配させなくなりました。
無意識のわたしの望むように動いています。
思考を遣わないと言った方が、わかりやすいかな?
閃きの通り動いていると言った方が、わかりやすいかな?
文字を読む時など、ちょこっとは、思考を遣います。
けど、ほぼ、頭の中は、空っぽです。
ちょうど、車の運転のことは考えていないけど、車の運転をしているような状態。
ちょうど、何も考えていないのに、お風呂で体を洗う順番を間違えないような状態。
何も考えずに行動ができるなんて、そもそもそんなことも考えたことはありませんでした。
いつも頭の中は、何か喋っていて、やかましいほど、あちこち話題が変わって、そうやって考えているから行動しているのだと思っていましたが、
考えていることと、やっていることは関係がなかったようです。
家事をしていて、「疲れる」と思っていたのは、思考であって、体は何とも思っていなかった。
ちょうど、初めてスキーをした頃、
「谷側の足に力を入れて・・・、ストックは、前の方へ刺すようにして・・・」 と、
色々考えながらスキーをすると、そこらじゅうの筋肉に力が入って、ヘトヘトに疲れましたけど、
慣れてくると、もういちいちそんなこと考えずに、滑ることができるようになって、楽に滑れるようになる。
頭の中が空っぽですから、疲れないわけです。
何をしていても疲れない。
以前は、よく言ってました。
「あ~、疲れた。」って。
今日は、母の内科受診でした。
採血がありますから、予約時間の1時間前に病院へ到着して、待ち時間は3時間でした。
病院でお昼を食べて、お薬をもらって、
母が買いたいという物があって、仏壇屋さんへ行き、電気屋さんへ行き、
最近、メガネを使っても見えにくいと言うので、
眼科へ行き、調べてもらいましたが、視力と度数は、バッチリ合っていました。
帰ってきたら、もう5時で、
夕食を作り始めてくれていた主人と合流して夕食を作り、後片付けをし・・・
以前のわたしは、こんな1日を過ごせば、「疲れた。」の100連発でした。
疲れを感じさせていたのは、
母の言う通りに、やらされていると思う、受動的な行動。
母の話すことに、一つ一つジャッジをして、抵抗していたこと。
鏡の法則を使わず、わたしが正しいと思い込んでいたこと。
わたしが一番しんどい思いをしているという、傲慢なわたしがいたこと。でした。
もう、そんなわたしは、何処かへ行ってしまいました。
わたしの日常の全てを、『魂の羅針盤』の、道の上に乗せていっています。
毎瞬毎瞬の、ひとつひとつは、生きる上で何でもない、他愛もない事です。
でも、そのひとつひとつが、意識の世界にいるわたしが体験したいと望んでいることなので、わたしは、そのひとつひとつを叶えています。
その結果、『魂の羅針盤』の道の上に乗ることができたのですから、
その選択は、『肯定』だったということになります。
何も考えない、自分の感覚だけを信じていけるのは、
宇宙の法則の中で、この世界が成り立っている理を知ったからです。
ここは、とても楽な世界です。