誰かから、悩みを相談されたとき、みんなに共通していたことが、いくつかありました。
話しを聞いて、
「こうしたらどう?」「ああやってみたらどう?」と、
わたしがアドバイスすると、相手の人も、「そうだね。そうしてみる。」と、その時はそう答えるのですが、しばらくして
「で、どうなった?」と聞くと、
「あぁ、まだ何もやってない。」「どうせ、やっても変わらないかなって思って・・・」 と、
そんな返事が返ってくることがありました。
その体験をしたことで、
「人というのは、自分が決定しない限り行動に移さないんだ。どんなにアドバイスしても、意味はないんだ。」
そう気づいたわたしは、次からアドバイスをすることを止めてみました。
アドバイスせずに聞いていると、結局相手は勝手に納得して、勝手に自分で何かを決めていました。
その体験で気づいたことは、
「人というのは、ただ言いたいだけなんだ。聞いて欲しいだけなんだ。わたしがわたしの体験の中からアドバイスしても、相手の生きてきた体験とは違うから、使えないんだ。」
ということでした。
では、わたしはどうかというと、
話しを聞いてはいるけれど、聴いてはいません。
相手が喋っている中で間が空けば、間髪入れずに、こちらの考えを述べます。
その結果、最初に話していたことから、どんどんと話しの内容が反れていきます。
何時間も話しをした結果、お互い話したいことを話しただけの時間を過ごすというパターンです。
そんな体験から、悩みは、自分の中でしか解決しないんだと思うようになりました。
でも、それはそれでよかったんです。
言いたい事を、言いたいだけ言って、スッキリした気持ちになっていたんですから。
今思えば、自我の世界にいるお互いが、我を出す場所を提供し合っていただけだったんだと、わかるようになりました。
悩みが生まれる原因の一つには、自分で創る幻想物語があります。
目の前の現実は、ただ在るだけです。
家庭という舞台、職場という舞台、学校という舞台、娯楽場所という舞台等々という舞台に、人がいるだけです。
その設定場面を遣って、その関係性を遣って、各々個人が、色んな捉え方をします。
その捉え方は、見事に自分がフォーカスしていることに絞られていきます。
気にしていることは、気になるからです。
ブランド物に拘っている人は、通りすがりの人が持っているバックや服装やアクセサリーに意識が向くように、
自分が気にしていること、拘っていることは、必ずフォーカスするようになっています。
フォーカスすると次は、比較です。
わたしより値段の高いバックを持っているかどうか。
わたしより、そのバックが似合っているかどうか。
わたしより、そのバックを持つ価値がその人にあるかどうか。
一瞬のうちに判断します。
その判断能力は、
キャッチボールでイメージするとよくわかりますが、
相手と自分との距離を瞬時に把握し、あそこに投げるには・・・と、ボールを投げだす腕の振り方や速度を瞬時に判断しているのと、よく似ています。
無意識に一瞬にして比較しています。
で、ここから自我の幻想物語が始まります。
「私よりブスなのに、何で私より高いバックを持ってるわけ?パトロンでもいるの?いやいやあんなブスにいるはずないわ。そうだわ、きっと親から買ってもらったのよ。そうに決まってる。今度は絶対、あのバックより高いブランドのバックを買うわ!」
結局、分割払いでブランド物ばかり購入し、お金がないと悩んで苦しむことになっていく。
というような、自分が創った幻想物語で、自分を悩ませてしまう。
悩みを創る原因の二つ目には、相手を赦せないことです。
この世は、鏡の世界ですから、相手を赦せない=もう一人のわたしを赦せないことです。
鏡の法則を遣っていれば、赦せない相手が目の前に現れてくれたことは、わたしが一対になれる最大のチャンスが巡ってきたとなりますが、
自我の世界では、絶対に会いたくない、大嫌いな存在になります。
その人に対して、ああでもない、こうでもないと、自分の思い込みを全てその人に貼り付け、装飾していくことで、想いと感情が、その人にくっついていき、その人を大嫌いになっている原因や理由を付け加え、わたしが正しいんだという幻想物語を、脚本家のごとく創りあげていきます。
ところが、それだけ幻想物語を装飾した相手でも、
陰陽一対になってしまえば、
ものの見事に、相手への想いがフラットになってしまいます。
どんな人が、わたしの目の前に現れたとしても、ここはわたしの観ている世界です。
相手の人が、どんな悩みや、どんな自我を持っているのかは、わたしにはわかりませんが、わたしの自我が発動すれば、わたしの胸に振動を感じることができます。
その振動を手放してしまえば、陰陽一対になっていきます。
その理は、腑に落とすことができたので、
家族を始め、職場の人、知人、その他出逢う人全てに、今、実践中です。
近しい人ほど、「ふん、ふん」と、聞いているようで聞いていないことは、ザラです。
でも、それを続けていると、いつまでも相手の話しを聴くことができないので、家族が話すことも見逃さないようにしています。
繰り返していけば、そのうち習得できるようになることは、もう検証済みなので、ただ、ひたすら意識を向けて、繰り返して身に着けていきます。
意識の世界のわたしが、
と、印をくれるまで、ひたすら行動あるのみ。