『肯定』『否定』という言葉を聴くと、
『肯定』は、ポジティブなこと。
『否定』は、ネガティブなこと。
と捉えてしまいますが、そうではありません。
ネガティブな考えをしていることに対して、
「そんなふうに考えるのはよそう!ポジティブに考えよう!」
と、自分自身に言い聞かせたところで、それは感情を抑え込んだだけのことで、
イメージで言えば、
吹きこぼれそうになった鍋に水をさして、一時的に収まっただけで、再び感情が溢れてくるようなものです。
ポジティブが良くて、ネガティブは悪いという概念は、人間意識の判断基準です。
自我意識を遣うのであれば、いつも
この繰り返しです。
『肯定』とは、意識も、思考も、言動も、行動も、能動的な方向へ舵を取ることです。
わたしたちは、「やらされている」という受動的な位置に立っていると、とても不快を感じます。
やらされている勉強や、テストのための勉強は、面白くないと感じます。
これは、仕事でも、日常生活でも同じです。
「やらされている」ことは、とても不快なので、イヤイヤ感満載です。
じゃあ、やらされている勉強を、自分の為だとポジティブにしようとしたところで、おそらくやる気にはなれない。
紫式部が書いた源氏物語を読んでも、さっぱり意味がわからないし、全くつまらない。
テストの為にはつまらないけれど、中身を読み込むと、枕草子の作者の清少納言の悪口のようなことが書かれてある。
そこに興味が惹かれると、勉強が勉強ではなくなってくる。
料理家の栗原 はるみさんは、料理が苦手で、ご主人にいつも文句ばかり言われていたことから、「絶対に美味しいと言わせたい。」と、料理から逃げずに、一生懸命に取り組んだ結果、料理家になられた。
『肯定』は、逃げない方向にあります。
感情が発動するのは、『否定』の方向へ向いてますよと教えてくれているサインです。
感情を味わっていたり、感情に呑まれてしまうと、どんどん自我の世界の深みに入り込んでしまい、出られなくなってしまいますし、『肯定』の方向から、どんどん『否定』の方向へと向かってしまいます。
体感的には、苦しい、辛い、やりきれない等々を感じることになります。
「そういうことなのか」と、『肯定』の意味がわかったわたしは、
表面のわたしが、陰を選択していれば、裏側にいる陽のわたしを見つけるという『反転』をしています。
『反転』をする、一つの方法として、相手の位置に自分を置くことがあります。
例えば、
「わたしが、ああゆうふうに怒る時って、どういう時だろう。」
「あぁそうか。真剣に話しを聴いてくれず、わたしの気持ちをちっとも考えようとしてくれない時だ。」
ということがわかったら、
「真剣に話しを聴いて、相手の気持ちを知ろうと行動したら、相手はどんなふうになるんだろう。よし、やってみよう。」
こんなふうに、『肯定』への体験を重ねています。
で、思ったんです。
わたしが『肯定』の塊になったら、どんな世界が観えて来るんだろうって。