「そうなって欲しい。」

 

「そうならなければ困る。」

 

「そうならなければ、これからどうしたらいいのかわからない。」

 

 

 

 

そう思うのに、そうならない現実。

 

 

 

 

だのに、

 

「え? なんで?」 と、

 

思っていたことが、現実になってしまうことがあります。

 

 

 

大抵は、

 

望むことは、現実にならず、

 

「そうならなきゃいいのに。」 と、

 

思っていたことが、現実になる可能性が高い。

 

 

 

 

この差は、いったい何なんだろう。

 

 

 

思いっきり願っていることは、叶わないのに、

 

思いっきり、イヤだと思う事は、叶ってしまう。

 

 

「そうなったらいいのにな」 と、何となくつぶやいて、つぶやいたことさえも忘れてしまっていたようなことは、

 

「そう言えば、確かにそう思ったけどさ。ふと、つぶやいただけだったよねぇ。」

 

それなのに、現実になってしまう。

 

 

 

 

そんな経験を何度か体験したとき、このコツを掴みたいと思いました。

 

意識すれば、願いは叶わない。

 

意識しなければ、願いは叶う。

 

 

 

 

この世界には、流れがあります。

 

わたしの体の中の血液が循環しているように、

 

雨が降って蒸発して雲になって、また雨になってと循環するように、

 

酸素を吸って二酸化炭素を吐き出せば、二酸化炭素を吸収して酸素を放出してくれるように、

 

人間以外の動物や植物等々の生き物たちは、生命を維持して子孫繁栄の為に、協働共存する循環の流れをもっているように、

 

どうやっても止められない循環があります。

 

 

 

それは、意識の世界も同じで、

 

追えば追うほど、逃げていくし、

 

逃げれば逃げるほど、追いかけて来る。

 

という、流れがあります。

 

 

 

何かを望むとき、必ず望まない体験があって、

 

だから、その体験をしたくないと思うから、その反対側にあることを望む。

 

 

そこには、執着があります。

 

 

得ようとすればするほど、逃げていく。

 

 

 

 

 

望みを叶えたいなら、フォーカスを外します。

 

 

フォーカスとは、気にしていることです。

 

 

「あの人のあの言動が、とても気になって、イヤで仕方がない。」

 

「あれは、こうでなくてはいけない。」

 

と、思うようなことです。

 

 

 

でも、本当にフォーカスしているのは、その見たままの姿、聞いたままの言葉ではありません。

 

あの人の言動が、とても気になっているのは、

 

「いつも誤魔化して、逃げようとしている。」ことにフォーカスしているからだったりします。

 

そしてそれは、鏡に映った自分自身のことであるから、気になってしまうのです。

 

 

 

ちょうど、お好み焼きを食べた後に化粧室へ行って鏡を見たら、歯に海苔が付いているのがわかったのに、自分の歯じゃなくて、鏡に映った歯から海苔を取ろうとしてイライラしているようなものです。(どんな例えや)

 

 

 

 

「じゃあ、望みが叶うように、望みの反対側にあるフォーカスを外したら、望みが叶うのね。目

 

そうです。

 

と、言いたいところですが、そうはならない。

 

 

 

 

何故なら、自我の世界にいれば、「フォーカスしていることは、無限にあるんとちゃうか?」というくらいフォーカスしていますから。

 

 

「〇〇さんは、・・・」

 

「あの人は、・・・」

 

と、「・・・」の部分に、想いや感情が入った瞬間に、フォーカスしていますから。

 

 

 

 

 

フォーカスとコントラストは同義語のようなもので、拘り、否定を意味しています。

 

それは、流れをせき止めてしまう役割をしてしまいます。

 

 

 

 

自我が言う、

 

めんどくさい、しんどい、辛い、やりたくないという『否定』を遣わず、

 

逃げない方向、

 

素直な方向、

 

誤魔化さない『肯定』の方向へと舵をとっていきます。

 

 

 

 

望んでいることは、一つじゃないはずです。

 

わたしたちは、常に、『快』の方向へと舵を取ろうとしています。

 

だのに『不快』を体験するから、

 

「人生なんて、苦しいことばかりだ。」

 

「思うようにならないのが、人生なんだ。」

 

と、望んでもいないことを、言葉にしてしまいます。

 

 

 

宇宙は、言葉なんか聞いちゃぁいません。

 

宇宙が、受け取っているのは、

 

「諦め」「絶望」です。

 

「やらない」という『否定』です。

 

 

『否定』を遣う限り、『否定』が還ってくるという、しくみに乗っかっているだけに過ぎません。