自我は、色々な場面設定で現れますが、基を辿れば、
執着や依存、無価値観、自己否定等々にいきあたります。
例えば、
「わたしを大切にしてくれない。」 と、思う相手は、誰でもいいわけです。
家族でも、友達でも、職場の人でも、何かの集まりで知り合った人でも。
基を辿れば、何かの体験をしたことで、自分自身が自分のことを大切にできない記憶があって、そのことに依存や執着をしていれば、当然、それが鏡に映ってしまいます。
自分のことを大切にできない状況は、自分も他の誰かを大切にしていない行動をとっていますから、
誰からも大切にされない現実が、自分の観える世界に存在してしまいます。
自我を形成する、執着や依存、無価値観、自己否定等々は、承認欲求が大元の基礎を創っているなぁと思っています。
それは、
家の基礎の部分にあたり、この基礎から、執着や依存等々の柱が建って、そこに色々な装飾がされていく。そんなイメージです。
家であれば、この基礎こそしっかりとしていないといけないわけですが、
この基礎(承認欲求)が強ければ強いほど、自我を手放すことが難しい。
基礎は、上に建てた柱や壁を壊さない限り観えないように、
この承認欲求の本体に辿り着くまで、自我を手放し続けないと、ここに辿りつけない。
この基礎が残っている限り、再び家(自我)が出来上がってしまう。
そんなことを感じた出来事がありました。
今日は、母の内科受診に付き添いました。
母は、3年前に血管炎という自己免疫疾患を発症したので、プレドニンや抗免疫剤を内服しています。
そのため、膠原病専門医が大学病院から来てくれる、第二火曜に受診をしているのですが、今日は、その内科受診ではなく、循環器内科受診です。
母は、血圧が高いので降圧剤を飲んでいるのですが、それでも朝の血圧が180台や200台になり、血圧が上がることで、体調が悪くなってしまい、どうにもこうにもならなくなり、循環器内科を受診することにしました。
2週間前に受診して、別の降圧剤を半錠追加してもらっただけですが、血圧は安定しだし、母の体調も良くなってきて、今日の受診の結果、このまま内服を続け、1ヶ月後に受診することになりました。
ということで、受診を待っている時、母が急に、自分と父(私の)の遺影(卓上に置く大きさ)を、うちの仏壇のところに置いて欲しいと言ってきたのです。
これねぇ~ ほんとに、わたしの『意識の世界』が、『現実の世界』に現れるって、心底思うんですけどね。
父のお葬式で使用した遺影は、兄の家にあるのですが、卓上のは母の部屋にあります。で、母が亡くなったら、母の遺影もそうなります。
でもわたしは、父の遺影も母の遺影も置いておきたいと思っていなかったんです。
何故そう思うのかは、わたしにもわかりませんが、「置きたくない。」そう思っていました。
だのに、今日、置いて欲しいと母が言うのです。
母の気持ちもわかるのです。
わたしの家には仏壇があり、母も毎日仏壇に手を合わせています。
わたしも、花を欠かさず生けていますし、線香も毎日あげています。
でも、兄の家はそうではなく、小さい仏壇があるのですが、ただ在るというだけです。
母は、誰も来てくれないような部屋に自分の遺影が置かれてしまうことに、とても寂しさを感じています。
だから、うちの仏壇に卓上の遺影を置いておけば、わたしが毎日顔を見せにくるから、寂しくないと思っているようなのです。
わたしは、置きたくないと思っていますから、母を説得しようとします。
「嫁いだ家の仏壇に、置くって、あかんやろ。」と。
そう言っているわたしは、何をこんなに抵抗してるんだ?と思っています。
母は、そんなことは構わないと言います。
「鏡だ。」
と、思ったので、わたしは、「うん」とだけ返しました。
わたしが感じたのは、母の強烈な承認欲求でした。
それと同時に、
「こんなに強烈な承認欲求を、わたしは持っていたのか。」
そう思った瞬間、何かが抜けたような感覚を味わい、母も全くそのことに触れることはありませんでした。
両親の写真を仏壇に置いた風景をイメージしたところ、
「置いてもええやん。」
となり、母が亡くなったら、そうしたいと思います。
両親の写真と承認欲求が、どんなふうに結びついていたのかはわかりませんが、強烈な承認欲求でした。
わたしは、手放せたかどうかを必ず確認するのですが、その方法として、必ずトリガーになったその場面を思い出します。
その場面を思い出して、何の抵抗も無くなったら、「あぁ、手放せたな。」とわかります。
でも、思い出して、同じ感情が現れた時は、捉えた角度が違うんだなと判断し、もう一度観なおします。
今回の出来事は、もうひとつの乗り越えたいと思っている壁の、ヒントにも繋がりました。
即、検証を開始していますが、まだ確証までできていないので、またお話しするときがきたら、お話しさせてください。
家族は、自我を手放す最後の砦だと、わたしは思っています。
家族以外の人には『鏡』を遣うことができても、家族は、あまりにも近すぎて観えない。
ちょうど、鏡を顔にくっつけすぎたら何も見えなくなってしまうのと同じようなイメージです。
最近やっと、家族以外の人と同じように家族を観れるようになってきました。
承認欲求は、今までにも数えきれないほど手放してきましたが、それでもこうやって現れてきます。
どんな小さな、1㎜くらいの自我でも、手放し続けてきたことで、ここまでこれたんだなと、嬉しく思いました。