「正しい選択をする」と、奇跡が起こります。
わたしは、映画を観ることや、ドラマを観ることが大好きです。
映画館に行けば、必ず2本は観ます。
4本だって、観れます。
テレビドラマは、選んだ6局をテレビが勝手に録画しておいてくれるので、ドラマの開始時間に関係なく、観ることができます。
そんなに好きなのに、映画のタイトルは、直ぐに忘れてしまうし、映画監督の名前も、脚本家の名前も知らない。俳優さん達は、顔は知ってても、名前はあまり知らない。
わたしは、映画やドラマのストーリーの中にある、この世のしくみの理を観るのが好きなんです。
脚本家さんだけでなく、漫画家の方や小説家の方もそうですが、
「みなさんは、この世のしくみの理をご存知なんですよね。」
と、一度聞いてみたいと思うほどです。
映画やドラマの最後に、どんでん返しが起こることがありますが、
その時、必ず、
「正しい選択」をしています。
「正しい選択」とは、
自我を遣った、「わたしが正しい」の正しいではありません。
『魂の羅針盤』に沿った、正しいです。
霊性進化を滞らせる一つの要因に、
この三次元世界での正しいや間違っているに、拘ってしまうことがあります。
例えば、
「優しくする。」ことは、正しいことで間違ってはいません。
でも、正しいことだからと、「優しくしなければならない。」と、そこに拘ってしまうと、偏りが生じて、「優しくしなければならない」と信念を持つことになってしまった、反対側にある信念・・・
例えば・・・
優しくしてもらえなかったことで、「幸せに成るには、優しくしてもらわなければならない。」と思い込んでしまうと、
何でもない一言に対しても、「優しくされていない。」と思い込み、相手に優しさを求めるようになってしまいます。
この世のしくみには、求めれば求めるほど得られない、逃げれば逃げるほど、追いかけてくるという、理があります。
この世界には、色んな調味料がありますが、どんなに味を引き立ててくれる調味料であっても、量が多すぎれば、食べれない物になってしまうように、
どんなに正しいことであっても、度が過ぎれば、反転してしまいます。
「正しい選択」は、思考では、かなり難しいと思います。
自我は、思考を遣ってきます。
今までの経験からの情報を一気に集め、周りの反応、世間一般の常識、損をしないかどうか、自分が責任を負わなくていいかどうか、失敗した時の立場等々
それらが選択条件になってくるので、なかなか決めることができません。
『魂の羅針盤の向く方向』というのは、
正直であり、一切の誤魔化しがなく、
思考と、意識と、行動と、言動が一致している時です。
この三次元世界での、法を犯すことなく、
自分のやりたいこと、やるべきことで、仕える事をしたい。
と、結果がどうなるかなど関係のない決定 = 正しい選択をした時、
人間世界でいう、奇跡が起こります。
そのこととは、全く関係のないような出来事が、その奇跡に繋がっていきます。
何度かそういう体験をすると、
自我意識での選択は、いつも「こうなって欲しい」からと既に、そうなって欲しい結果を望んでいたことで、反対側にある
「そうならない結果」
を、観ていました。
奇跡が起こった時、そうなることなんて、そんなことになるなんて、想像すらしていませんでした。
イメージで言うと、
この世には、たくさんの果物があって、わたしは果物を食べたいと思っているのに、
「スイカを下さい。」
と、そう簡単には手に入らない寒い冬に、お願いしているようなもので(最近はいつでも食べれますが)、とても狭い範囲でのお願いになってしまい、実現不可能な状態に、自分で陥らせてしまっていました。
果物が食べたいなら、八百屋さんにお任せするのが一番確かで、八百屋さんが、今のタイミングで、家族全員が美味しいと思う果物を渡してくれます。
宇宙の采配は、調和とバランスです。
わたしがすることは、『正しい選択』=『魂の羅針盤』に沿った決定だけです。
お任せすれば、
誰もが、「ええやん」 と言える出来事=奇跡が起こります。
この『理』を知ってしまうと、迷うことや、後悔することは、消滅してしまいます。