自我の世界に、どっぷり浸かっていたわたしは、

 

自我の世界に、自分がいることがわかりませんでした。

 

 

そりゃぁ、そうなんです。

 

比較できなかったんですから。

 

 

 

 

 

わたしたちは、いつも選択しています。

 

うどんを食べるか、そばを食べるか。

 

肉を食べるか、魚を食べるか。

 

どちらも食べるのもありだし、どちらも食べないのもあり。

 

 

 

でもそれは、うどんの他に、そばがあると知っているからで、

 

知らなければ、選択することもできません。

 

 

 

 

それが、自我の世界でした。

 

 

 

 

胸にモヤモヤを感じたり、感情が現れた時に、そのまま放置せずに、ストップして、このモヤモヤをどうやったら取り除けるのだろうかと、試行錯誤したことから始まりました。

 

 

胸がモヤモヤしているのは、自分が失敗することを恐れて、その場から逃げてしまったことだとわかると、今度そんな出来事があったら、絶対にクリアできるように勉強をしました。

 

自我の世界では、自分が失敗することを、とても恐れます。が、その恐れの向こうにあるのは、

 

「できない人だと思われたくない。」

 

「いい人だと思われたい。」

 

という、とにかく自分を守ろうとする想いが、瞬時に作動していきます。

 

 

 

 

だから、いつだって、出来なかった理由を述べたり、本当はできたのに、あの人がそうさせてくれなかったからと、誰かやモノのせいにして、自分に責任を持たない方向へと舵と取ろうとします。

 

 

一番恐れていたのは、感情だったんだと、今ならわかります。

 

 

 

怒られたくない。

 

傷つきたくない。

 

痛い思いをしたくない。

 

辛い思いをしたくない。

 

 

そんな感情から逃げようと、

 

思考で、

 

「そう思ってはいけない。」とか、

 

「ポジティブに考えなきゃいけない。」とか、

 

「そうなるに決まってた。」と、意地を張ったり・・・

 

 

 

 

でも、人というのは、楽しいことや嬉しいことでは、自分を観ようとはしませんが、辛い思いや悲しい思いをすることで、

 

「なぜ、こうなってしまったんだろう。」 と、

 

自分を知る機会を与えてくれます。

 

 

 

 

この世のしくみは、本当に上手くできていると、感心するよりため息が出てしまうほど、凄い。

 

 

 

自我の世界を脱出するには、自分を知ることから始まります。

 

そのタイミングが、ネガティブな感情を味わった時です。

 

 

 

ネガティブな感情を体験することで、自我の幻想物語へと舵を取るのが、自我の世界です。

 

でも、そのネガティブな感情を体験することで、「何故なんだろう。」と、「知りたい。わかりたい。」という方向へ舵を取り出すと、自我の世界から脱出する方向へと向かいだすようになっている。

 

 

 

同じ、ネガティブな感情でありながら、ここにトラップがしかけられている。

 

 

自我が一番嫌う、

 

イヤなこと。

 

嫌いなこと。

 

めんどくさいと思う事。

 

苦手なこと。

 

に、向き合いだすと、一つずつ扉が開いていく。

 

 

 

 

でも、このトラップを解いていくには、『鏡の法則』を遣わないといけません。

 

 

『鏡の法則』を遣うには、素直に、正直にならないと遣えないしくみになっています。

 

 

「いい人と言われたい。」

「誰からも好きだと言われたい。」

 

 

そう思っている自我を持ったわたしが、

 

 

「どう転んだって、いい人じゃないやろビックリマーク

 

「そんなこと思っとったらあかんやろビックリマーク

 

「めちゃくちゃ、わたしが嫌いやと思ってる性格を持ってるやんビックリマーク

 

という、わたしを観ないといけないのですから、そちらの方向を無意識に避けようとします。

 

 

 

 

それでも、何かのきっかけがあって、

 

そんな大嫌いなわたしと向き合ったことで、とてもスッキリと軽くなったわたしに出会う体験があると、

 

 

 

「なんじゃ、こりぁ~」 となるわけです。

 

 

 

 

その『鏡』を遣えるようになるには、コツを自分で掴むしかありません。

 

文字で答えを書くテストに慣れてしまっていますが、

 

誰も教えることができない、観えない世界を遣うのですから、

 

正解か不正解かもわからない、自分だけの解を見つけないといけないのです。

 

 

 

 

でも、あえて言うなら、

 

感情が動いたその場面設定に、意識は向けないことです。

 

 

 

 

誰かに怒られると、怒られたもとの出来事より、相手の方に意識が向いていきます。

 

「そんなに怒らなくてもいいのに。」とか

 

「いつも怒ってばかりだ。もっと優しく言えばいいのに。」とか。

 

 

 

そうやって相手に思ってしまいますが、実は、わたしがそれを別の誰かにしていることがほとんどです。

 

職場では、

 

 

 

ネコをかぶることもできますが、家族や親しい中では我がでてしまいます。

 

 

上司から怒られている。という場面設定に意識を向けてしまうと、『鏡』を遣うことは難しくなってしまいます。

 

 

 

 

コツ2としては、

 

「わたしが部下に怒る時って、どういう時だろう。」

 

と、相手の位置に立ってみます。

 

 

「やって欲しいと思っていたことがぜんぜんできていなかったり、言い訳ばかりして、素直に成らない時かなぁ」

 

と、思ったら、わたしが、そういうことをやっていないかを観ます。

 

 

 

『鏡の法則』を遣うことで、『学ぶ』ことができ、霊性進化していきます。

 

ですから、自分の学びに応じて、遣い方が変わってきます。

 

 

 

 

 

『鏡の法則』を遣うことで、自我を手放していくことになります。

 

自我で頭の中がいっぱいだと、叡智と繋がることができません。

 

ちょうど、ラジオのチューナーを合わせるのと同じようなイメージです。

 

砂嵐のような、ザーッという雑音しか聴こえませんから、『現実の世界』ばかりに意識が向きます。

 

でも、自我を手放していくと、隙間が少しづつできてきて、

 

自分の霊性進化のレベルにあった音波を聴くことができるようになっていきます。

 

 

 

自我を手放していくときには、必ず『学び』もくっついてきます。

 

ただ手放していくだけではありません。

 

 

 

 

とにもかくにも、『継続』する。

 

必ず、何かしら観えてきます。