鏡の法則の存在を知ったからといって、直ぐに鏡を遣うことはできませんでした。
最初の頃なんて、ひどいもんでしたよ
自分が望んでいることが、鏡に映るんだと = 具転化するんだと、一生懸命に望むようになるようイメージをしていました。
でも、イメージしているのは思考なので、直ぐに別のことを考え始めていましたから、イメージは煙のように消えていってしまいました。
そのうち、「わたしの信念の反対を観せてくれてるのか?」 と思うようになって、
家の掃除をするのは、わたしばかりで、掃除をしてくれない夫や子どもを見ると腹が立ったので、
「あぁ、わたしは、掃除をしなければいけないと思っているんだ。」
と、見たままの反対を、捉えるようになりました。
これでは、何も手放せていなかったのですが、それでも腹が立つという感情を鎮静化させるのには、まずまずの方法でした。
そのうち、反対がなにかがわからない出来事が起こったんだと思います。
掃除をする ⇔ 掃除をしない
なら、簡単ですが、そんな単純なことではないことが起こったんです。
でも、一生懸命に、
「いったいわたしは、何を観てるんだろう。」
そう思ったのは覚えています。
その時、最近起こった出来事や、幼い頃の家族との関係が、走馬灯のように現れて、
“ この辛さって、あの時と同じだ! ”
と気づいた時、稲妻でも落ちたかのような、ズンッという感覚を感じて、一気にさっきまで悩んでいたことが、ウソのように晴れた。
この体験をしたことで、何かわからないけど、「ビンゴ」 という状態になると、このズンッとした感覚があって、イヤだったことが、全くイヤじゃなくなるんだ。
ということがわかったんです。
そのズンッとした感覚というのを、言葉で表現すると、
興奮と、喜びと、感動とが一気にやってきたような、
もう一度、この感覚を味わいたい。(覚せい剤か!)
そんな気持ちになったんです。
そのうち、モヤモヤすることや、感情が現れた時に、
「何を伝えようとしてくれてるんだろう。」
とストップして、感覚を捕まえるように、答え探しをしていました。
答をみつけると、さっきまでの煮えたぎっていた感情や、相手への感情が一気に消滅してしまうことがわかって、
わたしは、意識なんだと思うようになりました。
鏡の法則を少しづつ遣えるようになっていくことは、= 傲慢になる
ことでもありました。
周りにいる人が、感情で揺さぶられているのを観ると、
「あぁ、あの人は、鏡の法則のことを知らないからね。」
と、無防備になった自我が現れるようになりました。
もちろん、傲慢な杭は、必ず打たれますから、
こんなふうな現実を観ることになりました。
この世の法則は、完全なる平等ですからね。
そんなことを、何度も何度も何度も繰り返しても、
外の世界を観て「わたしそのもの」 とは、なかなか思う事はできませんでした。
思考に言い聞かせても、
「焼け石に水」みたいなもんで、また傲慢な自我が、出張って来る。
それほど、自我は強烈でした。
「焼け石に水」でも、かけ続けたら、いつかはただの石に戻るかもしれないと、
とにかく、とにかく、
胸に1㎜でも振動を感じたら、速攻深呼吸をして、一旦受け流す。
自我の幻想物語が始まりだしたら、「げん・・」くらいで、遮断する。
イヤなこと、めんどくさいことが目の前に現れたら、速攻反転する。
それを繰り返してきてやっと、やっとですよ。
外の世界を観て、
「あぁ、わたしそのものだ。」
と、心底、受け入れることができるようになってきたのは。
振り返ってみると、
「あれは、わたしの鏡なんかじゃない!」
と、断固受け入れていなかったことが、しばらくして
「わたしやん・・・」
そんな繰り返しがあって、結局
わたしを映し出す鏡でなかったことなんて、一度もなかった。
それがわかって、
もう抵抗する必要などないんだと、
認めることの方が、
受け容れることの方が、
ずっと楽になれる。
やっと、
暴れまくる自我を、手なずけれるようになってきたけれど、
まだまだ、油断したら、一気に振り落とされます。
わたしが、『主人』なんだと、心底信頼してもらうまで、諦めないからね。