自我の世界にいたわたしと、今のわたしを比べてみて、何が一番変化したかと考えてみた結果、

 

「逃げなくなった。」

 

ということがわかりました。

 

 

 

 

自我の世界にいたとき、自分が「逃げている」ということさえも、気づくことはありませんでした。

 

 

「逃げる」とは、どういうことなのか。

 

「受け入れる」とは、どういうことなのか。

 

「向き合う」とは、どういうことなのか。

 

言葉ではわかりますが、捉え方がわかりませんでした。

 

 

 

 

 

家事は、ちゃんとこなしているし、わたしがする仕事も、きちんとこなしている。

 

人間関係も、特に問題もなく過ごしている。

 

この何処に「逃げている」というところがあるのか?

 

 

 

観るのは、「現実世界で行動しているわたし」ではなく、「意識の世界にいるわたし」です。

 

 

 

 

『現実世界』と『意識の世界』は、常に循環しています。

 

 

「意識の世界のわたし」が、「現実世界」を観て、

 

「意識の世界のわたし」が、瞬時に何かを思い考え

 

「現実の世界」で行動し、その結果に「意識の世界のわたし」が反応し、感情が湧き出てきて、幻想物語に突入し、

 

再び、「現実世界」で行動する。

 

 

こんなふうに、わたしたちは、「意識の世界」と「現実の世界」を行ったり来たりしています。

 

 

 

今は、こんなふうに「現実世界」と「意識の世界」のやりとりを眺めていられるようになりましたが、

 

自我意識の時は、

 

考えているのも、感情が湧き出ているのも、行動しているのも、丸っと一つの「わたし」でしたから、逃げるも逃げないも、そんなことすらわかっていませんでした。

 

 

 

 

誰かがわたしに投げかけた言葉に対し、

 

“ あんな言い方せんでええやん。”

 

と、思えば、思っただけで放置してましたし、

 

誰かに何かを頼まれて、

 

“ めんどくさいなぁ ” 

 

と、心の中で思っていたら、その表情を汲み取って、

 

「わたしがやるよ。」

 

って言ってくれた人がいたら、

 

「あら、ごめんねぇ」

 

と、言ってやってもらって、終わり。

 

 

 

 

何かに失敗して、しこたま落ち込んだら、

 

“ いつまでも、落ちこんどったらあかんわ。早よ寝て、忘れてしまお ”

 

と、炙り出た感情を、沈静化させたらそれでよかった。

 

 

 

そんなふうに、ずっと悩んでは、時間が経って、感情が沈静化するのを待って、またいつものように過ごして、

 

そしてまた、感情が炙り出て、沈静化させて・・・ の繰り返しでした。

 

 

 

 

 

今では、感情が炙り出ることはなくなり、何かに反応すると、まずは胸に振動がきます。

 

小さいですが、「ドンッ」という感覚です。

 

「あ、来たな。」 と思った瞬間に、鏡の法則を遣いだすので、感情はくっついてこなくなりました。

 

今まで辛いとか痛いとか胸で感じているように思っていましたが、振動を感じても感情が紐づいてこないことを考えると、胸に感じた振動を、脳が「辛いって」「痛いって」みたいに、翻訳してくれていたんだろうなと、思うようになりました。

 

要するに、感情は、後から付いてくる。

 

感情に溺れてしまうことがなくなりましたから、あるがままの外の世界を観て、わたしが何を捉えたのかを知るようになり、

 

「ならば・・」 と、今、この瞬間の到達点に意識を向け、行動という選択をする。

 

 

 

 

こういうことができるようになって、

 

「何故、悩むということが起きていたのだろうか。」 と、振り返ってみると、

 

想いや感情で、自我の幻想物語がはじまり、

 

その中でただ、ウロウロしているだけで、

 

何にも向き合おうとも、受け入れようとも、行動しようともしていなかった。

 

『わたし』から、常に逃げていたな。とわかったことで、

 

逃げていたから、悩み続けていたんだと思うに至りました。

 

 

 

今はもう、どうやったら悩めたのか、忘れてしまいました。