「いつも、私が料理を作っているけれど、本当は私、料理を作るのが大っ嫌いなの。
だからもう、料理を作らない。これが本当の私なの。」
「いつも、はいはいって、どんな仕事を頼まれても、イヤな顔一つせず引き受けてきたけど、本当は私、引き受けたくなかったの。私は、私の仕事だけをするから、もう私に仕事を依頼してこないで。これが本当の私なの。」
「いつも私が、子ども達に勉強しなさいって言ってるけど、本当はそんなこと言いたくなかったの。あなたが何も言わないから、私が悪役になっていただけなの。だからもう子ども達に、勉強しなさいって言わないから。これが本当の私なの。」
我慢していたわたしではなく、言いたいことを言えるわたしが、本当のわたしだと思い込んでいましたが、
これは、自我の世界にいるわたしが、
自分の思う通りの世界にしたいのに、あなたがそうさせてくれないと、
だだをこねているだけだったのです。
本当のわたしは、この奥にいて、
苦しいと思っていたのは、相手がわたしにそうさせたからではなく、
わたし自身が、わたしの常識や拘り、執着、依存、自己否定、無価値観等々と闘っていたからだったのです。
「いつも、私が料理を作っているけれど、本当は私、料理を作るのが大っ嫌いなの。
だからもう、料理を作らない。これが本当の私なの。」
女性が食事を作るのが当たり前。
母親が作る料理は、おふくろの味じゃなくてはならない。
男性に料理をさせてはならない。
美味しい料理を作れる女性が、素晴らしい女性。等々
自分が生きてきた中で観てきた世界を、どう捉えたかで、自分自身が、
「〇〇でなければならない。」
と、自分を縛り付けていることで、そのことにフォーカスしていくようになります。
フォーカスとは、「気になること」「気にすること」です。
世界中の女性が、料理を作るのが大好きだとは思えません。
世界中の女性が、素晴らしい料理を作るとは思えません。
和食は得意でも、洋食を作るのは苦手な人もいます。
男性だけど、料理を作るのが好きな人もいます。
わたしは、わたしが思っていることが正しいことかどうかを知る為に、世界中の人に当てはめることがよくありました。
「学歴が高い人は、えらい人である。」 → そんなこと関係ないやん。
わたしは、わたしが思っていることを、世界中の人がやってみたらどうなるかも、考えてみたことがありました。
「食事を作らない。」 → あかんやん。餓死するがな。
わたしが思っていることは、わたしが勝手に思ってるだけやん。
それがわかったことで、わたしは、わたし自身と闘っていることがわかっていきました。
「いつも、私が料理を作っているけれど、本当は私、料理を作るのが大っ嫌いなの。
だからもう、料理を作らない。これが本当の私なの。」
この言葉の奥にいる本当のわたしは、
「やりたくないことから逃げようとしている。」わたしです。
自分が創造した幻想物語を遣って、感情に翻弄される自我の世界に居続けると決めた場合は、このままでいいのですが、
自我の世界から脱出したいと思われるなら、
『やりたくないことから、逃げない。』方向へ向かうことをお勧めします。
じゃあ、嫌いな料理を好きになるため、料理教室へ通わなければいけないのか?と、自我は極端なことを言ってくるかもしれませんが、まずは、今、できることから行動していきます。
まずは、キッチンを見渡してみます。
こんなになっているキッチンでは、誰も料理を作りたいと思わないわけです。
賞味期限が1年も前に切れた物があちこちに散らばり、どこに調味料があるのかわからず、
冷蔵庫には、何が入っているのかわからない。
綺麗になったキッチンで、料理をするのは楽しいものです。
仕方なく料理をしているわたしが観る鏡は、
誰も美味しいと言ってくれない世界。
誰も手伝ってくれない世界。
誰も感謝してくれない世界。
わたしは、
「やってやってる。」と思っていますから、
「やってやらない。」世界が観えます。
この世界は、自分で自分の人生を創造できるしくみになっています。
家族みんなが、家で食事をすることが大好きな世界を創造したいなら、
その方向へ行動をすればいいだけで、自分の思う通りの世界が出来上がります。
今まで選択しなかったタイムラインを選択したら、
どんな世界が観えて来るのか、検証してみる。
ただ、ここに注意事項があります。
自分の望む結果を望まないことです。
「こうやったら、家族が料理を作ってくれるようになるだろう。」と行動すると、
やっぱり「作ってくれない」世界が鏡に映ります。
結果は、宇宙の采配にお任せしていきます。
『わたしが、どうするか。』そこに意識を向けていきます。
行動は、意識を向けた方向にしか向かないという、この世のしくみの理があります。