『現実世界』では、納得できないことが、たくさんあると思っていました。

 

 

あの人が、あんな発言をするのは納得できないし、

 

あの人が、あんな行動をするのも納得できない。

 

 

 

今ならわかります。

 

納得できなかったのは、わたしの世界が全てだと思っていたからです。

 

 

わたしと価値観が違う。

 

わたしと考え方が違う。

 

 

わたしが世界の基準でしたから、そのわたしの基準から外れれば、納得いかないことだったわけです。ゲラゲラ

 

 

 

 

 

『腑に落ちる』は、納得とは違います。

 

 

『腑に落ちる』を説明すれば、理に気づいた時に感じた感覚を表現した言葉だと言えます。

 

誰かに説明してもらった場合は、「納得できた。」と言いますし、

 

誰かに説明してもらって、「腑に落ちる」こともあります。

 

 

 

ただ、この世のしくみの理に気づいた時、「納得できた」とは言わず、「腑に落ちた」を使います。

 

 

 

何を言いたいかと言いますとね、

 

わたしの体験上のお話しではありますが、

 

本を読んだり、誰かの話しを聴いた時に、「納得した。」と思った時は、『気づき』ではなかったので、学びも成長もなかったんです。

 

『腑に落ちた』という感覚は、誰かからその説明をしてもらったわけでもないのに、わたしの中で、ストンと落ちたような感覚です。

 

この時は、『気づき』があり、学びがあり、「そういうことか!」 という喜びがありました。

 

 

 

 

『納得』は、自我意識が満足したいだけのように思います。

 

 

 

この『腑に落ちる』感覚を何度も体験したことで、事実だけに意識が向くようになっていきました。

 

 

例えば、

 

わたしが仕事上のミスをした場合、

 

 

 

そのミスをわたしにクドクド言ってくる上司に納得がいかない。と、上司に意識を向けていたのが、

 

ミスをした箇所が、わたしの捉え間違いであったり、よくよく調べもせずに適当に書いた部分であったり、めんどくさいからと再チェックをしなかったことによって、その結果となった。

 

わたしの『意識の世界』と『現実の世界で観えた結果』で、そうなって当然だったとわかるので、迷惑をかけたことや、修正方法もわかるようになっていきました。

 

 

今はもう、

 

捉え間違いをしないように、その業務内容を行う前に、何のためのモノで、いつまでに必要で、どんなふうに仕上げて欲しいのか等々を聴きますし、

 

胸にモヤモヤがある状態で放置しませんし、

 

再チェックも必ず行いますから、修正はあっても、ミスをすることはありません。

 

わたしの意識の向ける方向と、どういうふうに行動をとれば、どんな結果に向かうかは、わかってしまいます。

 

 

 

 

 

この世のしくみの理は、納得することではなく、腑に落ちて初めて自分のモノになっていくように思います。

 

イメージで言うと・・・

 

腑に落ちる角度がある。

 

そんな感じです。(よけいわからんわ!)