かつてのわたしは、

 

シンクロニシティがおきたり、偶然が重なったりすると、

 

 

 

「うわぁ~すごい! 何かの前兆かもしれない。それともわたしが何者かになれるお知らせ?」

 

などと、自我の幻想世界を何倍にも膨らませていました。ゲラゲラ

 

 

 

その頃のわたしは、偶然にそれが起こったとしか、捉えることができませんでした。

 

 

 

 

『魂の羅針盤』の向く方向に舵を取りながら、

 

目の前に現れた現実を、毎瞬毎瞬を肯定の流れに乗せていく。

 

 

その流れの中で、

 

「こうなったらいいなぁ。」 と、

 

自分でも、確かにそうなればいいなと、思っていたけれど、

 

“ そんなかたちで実現するんだ。”

 

と、以前のわたしなら、

 

 

 

 

 

 

飛び跳ねて喜んでいたであろう出来事が、至極当たり前のように、

 

「成るように成ったね」と、ほくそ笑んで終わってしまう。

 

 

それが結構、心地いい。

 

 

 

 

「偶然にそうなった。」と捉える位置は、いつまたそれがやってきてくれるのかわからない状態であるため、

 

「また、そうなってくれないか。」 と、執着し、雲をつかむような不確かなモノで、掴み切れないモノ。

 

 

 

 

『魂の羅針盤』の向く方向へ舵を取り、常に意識を『肯定』の流れに乗せ、

 

思考と、言葉と、意識と、行動を一致させていけば、

 

ピースが集まり出し、それらのピースが全てピッタリと合わさったタイミングで、わたしの目の前の現実として現れる。

 

わたしは、何もそのことについてはしていないのに。

 

わたしはただ、タイミングが来た時に、必ずそれをしようと思っていただけだったのに、

 

采配など、何もしていないのに、

 

願いは叶ってしまった。

 

 

 

奇跡が、奇跡でなくなって、当たり前になってくる。