右利きのわたしが、左手に箸を持って食べようとすると、上手く箸を遣うことができません。
うまく掴めないし、
うまく食べれないし、
こぼしてしまうし・・・
お腹が減ってて、大好物ばかりが目の前にあって、直ぐにでも食べてお腹いっぱいにしたいのに、利き手じゃない左手で箸をもっているから、なかなか食べることができません。
生きている目的が、霊性進化であることを知って、
鏡の法則を遣ってみたり、
自我を手放してみたりし始めた頃の様子は、
今思うと、遣い慣れていない左手で箸を遣っているような感じでした。
わたしの思考は、長い間、自我意識仕様になっていました。
わたしより先に人間として生まれた先輩方から、この人間社会での生き方を教わってきました。
「こうすればこうなるから、こうしなきゃだめよ。」
自我の世界ならではの法則が存在し、その法則通りに生きることが当たり前で、その生き方が幸せに成れるんだと思い込んでいた世界です。
それは、本当のわたしは、左利きなのに、右手で箸を持つのが常識なんだと教え込まれて、
右手で箸を遣えるわたしが、わたしなんだと、違和感を感じながらも言い聞かせてきたような
そんな世界だったように思います。
そんなわたしが、左手に箸を持ち換えた時は、なかなか上手く食べることができません。
左手で食べれば、どんどん成長できるのに、
右手で食べることが慣れてしまっているから、
無意識に右手に箸を持って食べていました。
ハッと気づいて左手に持ち換えるけれど、また意識しなくなると右手に箸を持っている。
何度も何度も、そんなことを繰り返して、
やっと、左手で箸を遣えるようになってきました。
右手ももちろん遣えます。
以前のわたしは、右手に箸を持つ選択しかできませんでした。
でも、今のわたしは、左手で箸を遣う選択もできるようになりました。
右手で食べれば、成長はしないまま、ただ食べているだけの毎日です。
左手で食べれば、成長し続けるので、食べる物も違ってくるし、スプーンやフォークも遣えるようになってきます。
どちらを選択するのかと問われれば、
わたしは、左手を選択します。
自我の世界にどっぷり浸かっていたときの選択肢は、二択のみでした。
「これができないなら、やめる。できるなら、やる。」
「この方法を使わないなら、やりたくない。この方法を使うなら、やる。」
「わたしは、したくないから、あなたがしてよ。あなたがしないなら、わたしもしない。」
その世界は、
現実の世界だけしか観る事ができない、狭い世界でした。
左手で箸を遣えるようになるには、練習しかありません。
月1回の練習より、毎日の練習。
毎日の練習より、毎時間の練習。
毎時間の練習より、今この瞬間の全てを練習に遣う。
練習すれば、箸を遣えるようになると、思考に覚えさせることです。
自我の言うことばかりを信じていた思考に、
スピリットの世界を観せ続ける。
継続するというその努力は、どうしたって必要です。