知人が、
「あの子があんなに変わったのは、私がこの間、言いたいだけ言ってやったからやわ。」
初めて見るようなドヤ顔で、わたしにそう言ってきました。
もう、お分かりですよね
わたしそのものです。
わたしは、もちろん、そのドヤ顔を見るまで、全く気づいていませんでした。
でも、そのドヤ顔が、わたしそのものだとわかってから、自分の思っていたことを思い出してみると、
出て来る、出て来る。
「そうなって、良かったね。」
そう言いながら、
“ わたしのお陰だろう。”
そう思っているわたしが、いっぱいいました。
傲慢なわたしです。
人間意識は、こういう時、反省して落ち込み、そんなわたしを嫌いになったり、
「もう関わるのはよそう。」 と、
大間違いな方向へと舵を取ろうとしますが、
自我の世界にいるのですから、傲慢なわたしがいるのは当たり前です。
傲慢なわたしが存在しないなら、もうとっくに自我の世界は脱出しているということです。
傲慢は、承認欲求から生まれていると、わたしは思っています。
承認欲求を手放さない限り、傲慢なわたしは存在し続けます。
自分に対して、
「謙虚でいなければいけない。」と、言い聞かせても、それは思考レベルであって、必ず傲慢なわたしが現れます。
何故なら、
「傲慢なわたしは受け入れたくない。」と、『傲慢』はダメなことで、『謙虚』はいいことだと思うそのことが、ジャッジをしている、いわゆる『否定』です。
『否定』は、この世の流れに流すことができないので、わたしの中に留まってしまいます。
『肯定』の流れに乗せていきます。
わたしの『承認欲求』が、浮上してくれたタイミングを遣って、手放していきます。
じゃあこれでわたしの『承認欲求』全てを手放すことができたかと言えば、それはわかりません。
今までも何度も『承認欲求』を手放していますが、今もこうやって浮上してきました。
それくらい自我意識は、「自分を認めてもらいたい。」という想いが強いのだと思います。
『承認欲求』は、誰かに与えてもらうものではなく、わたし自身のことです。
わたしが、わたしを完全に受け入れることができるまで、観せられる世界です。
それは、鏡に映る、わたしを完全に受け入れることです。
あの人のことは許せない。
絶対にわたしの方が正しい。
その想いがある限り、わたしの承認欲求は、また浮上してきます。
鏡の法則の存在がなければ、みつけることができない『わたし』です。
思考レベルでは、どうしようもできません。
根こそぎ抜かないと、再び生えて来る雑草のようです。
わたしは、雑草を抜ききったら、どんな世界が観えるのかを観たいのです。