頭で色々考えて、それを行動に移した結果を観て、
その結果が、わたしにとって『快』なら成功で、『不快』なら失敗と判断し、
物理的な失敗なら、改善できるように再び頭で考えて工夫する。
人間関係の失敗なら、
どうしてあんなことを言うのだろう。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろうと、ただ悩む。
『わたし』を説明してと言われたら、
頭で考えて、できるだけ、『不快』を体験しないだろう選択をして、それを行動に移して、その結果を観て、『快』なら良かったと思い、『不快』なら後悔する人。
今思えば、
『わたし』の生きる基準は、
『不快』な感情をできるだけ味わうことのないようにしたい日常。
であったように思います。
ざっくり言えば、
いつも逃げていた。
そんな過去のわたしが、今のわたしを観たら、きっと驚くだろうな。
なりふり構わず、
『快』であろうが『不快』であろうが、そんなことはどうでもよく、
目の前に現れた現実を、
霊性進化一択の為に、遣おうとしている。
自我の世界は、
前に進めない壁が、デンッと目の前に現れ、その位置から動かないわたしがいるイメージです。
「どうしたらいいんだろう。なぜ、上手くいかないんだろう。なんで、こうなったんだろう。」と、あまりにも壁の直ぐ近くに居すぎて、その壁の全体像が観えていないような状態です。
自我を手放し、この世のしくみの理が観えてくるようになると、
「あの~ 3歩後ろに下がって観てください。その壁を乗り越えなくても、壊さなくても、右や左から回り込めて、前に進むことができるんですけど・・・」
と、目の前に壁が現れると、試行錯誤しながら理をみつけ、前に進んできました。
霊性進化は、とても面白いのです。
目の前に、大きな壁が現れて、にっちもさっちもいかない状態が続くのに、
「ハッ」 と、気づいた瞬間、あんなにでかかった壁が、一瞬にして
のれんに変わってしまい、難なく通り抜けることができるようになってしまいます。
そんなことを何度も何度も繰り返して思うのは、
自我の世界にいる限り、何度でも壁が現れるということ。
何度でも、壁をのれんに変えてしまえばいいのですが、
やがてその方法では、この自我の世界を脱出できないことがわかってきます。
人間意識でいた『わたし』に、一番くっついて、一番わたしを悩ませて、一番わたしの想いや行動に制限をかけていたモノは何か?
それは、
『感情』
スピリットであるわたしは『感情』という重いモノを持っていなかった。
ここに『理』がある。
そう思うのです。
わかりそうでわからない。
掴めそうで掴めない。
『理』に成る材料であるピースが、もう少し足らないのか、
揃っているけれど、わたしがピッタリ組み合わせることができないのか。
それさえもわかりませんが、
今は、今のわたしにできることをやるだけですね。