悩んで心が苦しくなった時、
「そんな自分を受け入れればいいんだよ。」
「悲しいと思っている自分、苦しいと思っている自分を、そのまま認めればいいんだよ。」
そんなアドバイスをもらうことがありました。
それが、受け入れることであり、自分を認めることだと思っていました。
でも、実際のところ、そう思っても、
心の重さは何も変わらず、ただ感情を抑え込んで、なかったことのように振る舞うだけのことで、今までと何も変わりませんでした。
わたしは、『受け入れる』を勘違いしていたのです。
これでは、承認欲求を手放すことはできないんです。
この世は、『肯定』の流れがあります。
この流れに乗ることが、最短最速に具現化へと進んで行きます。
『肯定』とは、ポジティブに物事を捉えることではありません。
逆に『否定』とは、ネガティブに物事を捉えることではありません。
例えば、「3日後の12時までに、この資料を提出するように」という業務が目の前に現れたとします。
『肯定』の理を知っているAさんは、
渡された資料内容を直ぐに確認して、どういう目的で使われ、何を求めているのかを把握し、この内容だと他の業務と並行して直ぐに準備を始めないといけないなと判断し、確認作業の時間を考えると、2日後の終業時には仕上げておきたいなと考え、実際に作業を開始します。
『肯定』の理を知らず、いつも『否定』の方向へと舵を取るBさんは、
資料を渡されたけれど、「あ、3日後でいいのね。了解。」 と、言いながら、心の中では、「今の業務も盛りだくさんで終わってないって言うのに、またか。」と、資料の中味をチラッと見ると、どうもややこしそうで、めんどくさそうだと思い手をつけないまま、そのまま2日後の午後を迎え、やっと取り掛かろうとしたところ、複雑な確認が多く焦り出し、これでは明日の12時までに間に合わないから、4日後まで締め切りを伸ばして欲しいと、その資料が3日後の午後の会議で必要であったことも考えず、結局会議では使えない資料となった。
こんなふうに、『肯定』とは、
自分が望むこと望まないこと関係なく、目の前に現れたことに対して、自分の意識と行動を同じ方向へ向けていくことです。
逆に『否定』とは、
「やらなければいけない。」と思いながら、「やらない。」というような、意識と行動が真逆を向いている状態のことを言います。
承認欲求が、強いことがダメであり、承認欲求がないのがいいことである。と思うのは人間として生きてきたことにより得た判断基準です。
承認欲求が強い自分がイヤだと思うことは、自分を責めていることになります。
イヤだと思えば思うほど、承認欲求が強い自分を観る事になり、認められようと躍起になってきます。
承認欲求が強い自分 ⇔ イヤ
と、『否定』= 受け入れられない = 認めない と抵抗しています。
この状態だと、『肯定』の流れに乗らないので、手放すことはできません。
手放すなら、
「承認欲求が強い自分をイヤだと思っているわたしがいるなぁ」
と、自分を眺めるような立ち位置に意識を持っていくことがコツです。
じゃあ、このコツを遣って、承認欲求を手放すことができたら、もう承認欲求がなくなるのかと思ってしまうのが自我意識なのですが、
そうではありません。
承認欲求の塊でできた、玉ねぎの皮を1枚剥いだくらいのことです。
何度でも、承認欲求に感情が揺さぶられることは起きます。
それでも諦めずに、手放していくと、
自分が自分のことを認めることができない限り、承認欲求は目の前に現れ続けることがわかってきます。
上っ面で、「私は、自分のことを認めています。」などと言っても何の役にも立ちません。
おまけに、自分を認めるということは、人間意識でのことではなく、スピリット意識での霊性進化においての認めることであるため、
さまざまな自我を手放し続けて、ようやくその意味がわかりだして、それでもまだ完全に手放すことができないくらい強い自我です。
自我の裏には、必ず保身や依存、執着、無価値観等が存在し、『いい子ぶりたいわたし』がいます。
この『いい子ぶりたいわたし』を見つけることができれば、難なく手放すことができます。
今日もわたしは、『いい子ぶりたいわたし』がいたので、どんないい子ちゃんがいるのか文字にしました。
もう文字にはほとんどしなくても手放せるようになっていますが、何度もわたしの意識の中に登場してくるので、書いて、わたしの意識を覗くことにしました。
誤魔化していること。
ウソをついていること。
良い人に思われたいと思っていることなど、
見たくない自分をさらけ出しました。
ただ、さらけ出しただけだったのですが、
見事に答えを見つけることができました。
答とは
「こう言って、ウソをついた方がいいんじゃないか。」 と思っていたわたしに、
「この角度から話しをして、正直に伝えればいいんじゃない?」 と。
それは、ウソもなく、誤魔化しもないため、その話し方なら全く自分に抵抗なく、きっと相手にもわかってもらえるだろうと思える答えです。
自我意識の中での答えは、一択で、この角度からのみとなり、他の伝え方や、他の方法が全く浮かばなくなります。
殺人を犯した人が、
「殺すしかなかった。」
というのと同じです。
他の方法が全く見えないのです。
自分に正直になり、そう思っている自分を明らかにしていくことができるのは、自分を観察できていることになります。
思考のわたしには、どうしようもできないことが、
『肯定』の流れに乗せれば、調和とバランスの取れた、誰もが「ええやん。」と思える答えを、閃きとして教えてくれます。
胸がモヤモヤしているのに放置しないことです。
放置すればするほど、大事になってきます。
課題投下されているのに、気づかないからです。
出された課題をいつまでもやろうとしないのは、『否定』にあたりますから、いつまでも『肯定』の流れに乗れず、思うようにならない人生を歩むことになります。
色々なことが起こっているようにみえて、実は一つの課題投下です。
胸がモヤモヤしているのは、魂の羅針盤の方向からズレているサインです。
モヤモヤがスッキリすれば、魂の羅針盤の方向へ舵をとった状態です。
モヤモヤがスッキリする方法を自分でみつけ、毎瞬を丁寧に生きていく。
この世のしくみの理は、焦っても、急いでも知ることはできません。
判定しているのは、意識の世界にいる『わたし』です。