「無理、無理、無理、無理、無理 絶対に無理
あんな、大っ嫌いなヤツに、優しくするなんて、絶対に無理
そんなことをしたら最後、うぬぼれて、もっとつけあがってくるに違いないじゃない」
その通りです。
自分が、そう思っている限り、
どんなに優しくしても、結果は同じです。
この世は鏡の世界。
その人のことを大っ嫌いだということは、
大っ嫌いなわたしを観ていることになります。
「絶対に、そんな人にはなりたくない。」
「絶対に、そんなことを思っているわたしにはなりたくない。」
そう思い続けて生きてきたのに、
大っ嫌いなその人が、わたしそのものだなんて、絶対に認めたくない。
自我は、そう言い切って、
せっかくの『学び』のチャンスを、
せっかくの、次元上昇のチャンスを逃してしまいます。
「人の悪口なんて聞きたくないし、なんであんなに悪口ばっかり言うんだろう。」
そう思ったこのこと、そのものが、実は、自我の世界で遣う、ジャッジ、コントラストそのものです。
声に出して言っているか、心の中で言っているかの違いだけです。
お互い、悪口を言っているつもりなんてないのです。
国の領土を取り合っている様子を見て、
「なんであんなことをするんだろう。どうして苦しませることばかりするんだろう。」
そう思いますが、
自分の周りの世界を眺めてみると、
「隣の柿の木が、うちの敷地に入り込んでいる。」 と、怒鳴り散らしたり、
「庭でバーベキューをされると、洗濯物が臭くなって困るじゃないの。」 と、楽しんでいる家族の中に入り込んでいったり・・・。
この世界は、フラクタル構造です。
場の大きい小さいはありますが、
思っていること、やっていることそのものは、何も変わりないのです。
何を思おうが、何を考えようが自由な意識の世界。
でも、感情が動くのは、
自分の意識の中で、ジャッジしていることがあるからです。
自我の世界から離れていくことは、ジャッジが消滅していくことでもあります。
最初のころは、意識の世界だけで自我を手放すことができました。
「あぁ、本当にそうだ。わたしそのものだ。」
と、心底腑に落ちることができれば、手放すことができます。
でも、ある時期から、『気づく』だけでは手放せない時期がやってきます。
学生で言えば、
先生が授業で教えてくれることを聞いていれば、「なるほどね。」とわかっていた時期から、
「さぁ、今日は、授業で習ったことが、どれくらい理解できているか、テストをしてみるからね。」
というタイミング。
スポーツで言えば、
素振りや球拾い、パスの練習を、いやというくらいやった時期に、
「さぁ、今日は、本当に身に付いたかどうか、試合をやってみよう。」
というタイミング。
いわゆる、
「意識の世界で理解できたことを、この現実の世界で実際に行動して遣ってみて。」
というタイミングです。
自我を超えようとする最初の頃、
「大っ嫌いな人に、優しくする。」
を、実際にやってみる。ような感覚でした。
これには2つの方法があって、
ひとつは、大っ嫌いなその人を鏡として観察して、完全に腑に落とし、フラットにした状態から、行動に移す。
もう一つは、
大っ嫌いなままだけど、大っ嫌いなその人に優しくしたら、どんな反応が還って来て、わたしはどんな感覚を感じるんだろうと、そこに興味があって行動に移す。
そんな検証をしてみた結果を、いつも観察していました。
目の前に、現れた
大っ嫌いな人こそ、
大っ嫌いな、やりたくないことこそ、
わたしを『学び』の世界へと連れていってくれます。
自我を手放し続けると、大っ嫌いな人というのは、存在しなくなっていきます。
でも、自我はそうやすやすと離れていきません。
いくらでも、自我の幻想世界は創造することができます。
本当に、自我は強烈です。
少しでも油断すると、いつの間にか
「コントラストの世界へようこそ」 と、
目先の楽さや、甘さに、無意識に引き寄せられてしまいます。
最近は、そんなふうに引き寄せられそうになったら、
「わたしの場ではありませんので。」
と、お断りしています。