自分の自我の世界が観えるようになってきたことで、
誰の為に、あんなに我慢していたのか。
観えるようになってきた世界があります。
毎日々、仕事でヘトヘトになって帰ってきたと思ったら、
夕食の支度や、子ども達の学校からの連絡の確認や子ども達の話しを聞く。
夕食を作るのに、1時間近くかかったのに、食べるのは15分。
後片付けに、また1時間くらい必要で、
お風呂に入って、洗濯物を片づけて、必要ならアイロンをかける。
その間、子どもや夫は、テレビを見たり、好きなことをしてる。
私だって、ゆっくりテレビを見たい。
私だって、好きなことをしたい。
でも、私がやらなかったら、誰が後片付けをするの?
「今日は、疲れたから、もう寝るわ。」
そう言って、夫は、早々と寝室に行く。
子ども達もいつの間にか、自分の部屋に入っていく。
読み散らかした新聞や雑誌が、リビングに散らかり、
コーヒーを飲んだ後のマグカップは置きっぱなし。
いい加減にしてよ
・・・で、わたし。
いったい何で我慢してたの?
いったい誰に我慢してたの?
一言で言えば、
『保身』 です。
私の育った環境では、
祖父が、祖母や父や母のことを、いつも怒ってました。
父も、いつも怒ってました。
私は、怒られるのがイヤでしたし、怒られている祖母や父や母を見るのやイヤでしたから、
〔 怒られたくない。〕
と、常に思っています。
怒られる = 拒否される = 嫌われる
と、思い込んでいましたから、
「家事を手伝って欲しい。」
と言って、拒否されることをとても恐れていました。
この段階で、「家事を手伝って欲しい。」 と言っても、ダメなんです。
なにせ、この世は鏡の世界です。
どんなに表面上で、
「手伝ってくれないかなぁ」と、
自分では言葉を選んで、優しく言ったつもりでも、
自分の感情を抑え込んで、相手を怒らせないように言ったつもりでも、
鏡に映るのは、
この、わたしです。
わたしが鏡に映っていることも知らず、
「ほらね どんなに優しく言っても、誰も手伝ってくれないじゃない」
と言い、
「だから、言いたくなかったのよ 」 と、
また一人で、怒りと闘う世界を創造していきます。
闘っていたのは、
自分自身の『望むこと』 と、『望まない』こと。
我慢していたのは、
そんな自分自身に対してです。
もうそんな世界は、遠い昔になってしまいました。
今は、何の遠慮もなく、手伝って欲しい時は、
「手伝って欲しい。」
と言いますし、
手伝って欲しそうだな。と思えば、
何の迷いもなく手伝っています。
自我を手放していけば、こんな世界を創造できるこの世のしくみがあり、
望む方向へ舵を取れば、望む世界が創造されていきます。