随分前・・・多分、学生の頃くらい随分前に、時代劇によく出ている俳優さんと、司会の方が話しをしているトーク番組を見ていました。

 

 

司会の方が、俳優の方に

 

「あれだけたくさんの侍達が向かってくると、いくらお芝居だといえ、大変じゃないですか?」

 

そう質問すると、俳優の方は、

 

「いえ、それほどでもないんです。必ず、1対1で戦うので、1人が終われば次の人という形なので、その繰り返しなんですよ。」

 

そんなふうな答えをしていました。

 

 

 

一見、何人もの侍が、1人の侍に、寄ってたかって刀を振り下ろしていると思っていたので、その後わたしは、時代劇のそういう部分を見る機会があった時、そのことを意識して見るようにしました。

 

 

戦っている二人の後ろに、刀を構えた侍はいますが、その二人の戦いが終わるか、振り向かない限りは、向かっていかない。

 

もちろん、本当の戦国時代では、同時に1人の人に向かっていくこともあったのでしょうが、こういう時代劇にはシナリオがありますから、そのシナリオに沿った流れがあるのでしょう。

 

 

 

この記憶は、ずっとわたしの中にあって、

 

 

 

忙しいと思う時や、あれもこれもしなきゃいけないと、

 

頭の中が、グチャグチャになっているときに、

 

ふっと、蘇る記憶です。

 

 

そして、よく思ったものです。

 

「あ~、そうか。あれもこれもと思っているのは、わたしの頭の中であって、目の前に現れたことは、一つなんだ。

 

これをまず、完結していこう。」

 

 

 

 

 

霊性進化の課題投下も、同じです。

 

 

『現実世界』では、

 

こんなことが起こったと思ったら、あんなことが起こって、

 

余計に忙しくなって、グチャグチャになって、

 

 

 

どれもこれも中途半端になって、結局どれも完結できず、自己嫌悪に陥る。

 

 

 

目に観える『現実世界』に振り回され、この現実を何とか落ち着かせようとして、余計にややこしくしてしまっていましたが、

 

 

 

 

この世のしくみの流れがわかった今なら、

 

そういう時こそ、課題投下だと気づくことができ、

 

この課題の答えをみつけないかぎり、

 

課題投下され続けることもわかっていますが、

 

課題投下も一つ。だということ。

 

 

 

現実世界で、あれもこれもと観せられてしまうと、

 

まるで、山のように課題が投下されたのかと思ってしまうけれど、

 

実のところは、たった一つ。

 

 

 

心を落ち着かせ、一つ一つの出来事ではなく、それらの出来事を大きくひとまとめにすると、必ず共通点がわかってきます。

 

「そういうことか!」

 

その答えがわかった途端に、ウソのように目の前の現実が、スムーズに流れだします。

 

 

 

 

こんな体験を何度もすると、

 

課題投下に気づき、その答えがわかったとき、自分が一歩成長できたと実感します。

 

 

わたしが知らなかったことを知る。

 

誰に何かの質問をされたのでもなく、

 

外の世界を観て、

 

わたしが、感じたことや思ったことがヒントになって、答えを導きだしていく。

 

 

 

 

飛び級は絶対になく、必ず『学び』の段階を踏んでいくこの『意識の世界』のしくみは、きっとシンプルだからこそなのだろうと思ってしまいます。

 

 

外に観える世界は、自分の意識の投影。

 

目の前に現れた一つの出来事(課題)を、完結していけば、必ず登れる階段。