「もう、こんな悲しい想いはしたくない。」

 

「もう、あんな辛い想いはしたくない。」

 

 

 

「そっか!」

「悲しい想いをしなくて済むように、悲しい想いをしてしまうだろうことは、しないでおこう。」

 

「辛い想いをしなくて済むように、めんどくさいことには関わらないようにしよう。」

 

 

 

こうやって自我は、自分の気持ちや、想いを一番に大切にしようと生まれました。

 

 

 

 

 

「え!? 私が紹介した人が、その職場で他の職員と上手くやれていないの?ガーン

 

〔まったくなぁ~、お互い自我を見せ合いしているだけなのになぁ〕と思いながら、

 

腹が立っている自分に気づきました。

 

 

 

「裏切られた」

 

という想いがあり、これはその人に向かっています。

 

当然、外軸です。

 

 

「裏切られた」

 

その奥に、必ず私を守るための想いが存在しています。

 

 

〔私が信頼を失ってしまうじゃない。そう思われたら、私は傷つくじゃない。〕

 

 

 

自我の奥には、必ず

 

「私の、想い」

 

「私の、気持ち」

 

という感情で、自分の意識を向ける方向を選択します。

 

 

感情で、選択してしまいますから、『意識のわたし』の望む方向とは真逆の方向へ舵を取ろうとします。

 

でも、「そっちじゃないでしょ、こっちでしょ。」 と、

 

魂の羅針盤の方向へと向かせようとしますから、心の中に抵抗を感じます。

 

 

 

 

ダイエットしようと決めたのに、食べるという誘惑に負けてしまう。

 

この仕事を、自分の精一杯でやってみようと決めたのに、6時に飲み会に誘われて、

 

「まっ、今日くらいいいか」 と、

 

 

 

後ろ髪を引かれるような想いで、飲み会に行く。

 

ちっとも気持ちが盛り上がらないことが、わかっているのに。

 

 

 

 

常に、自我の世界にいる『わたし』には、感情がくっついています。

 

仕事を遅くまでして「可哀そうな、わたし」 のように。

 

 

 

 

自分の気持ちや想いを遣った選択は、

 

ただ、自我の世界をグルグルと環状(感情)線のように回っているだけで、

 

何を望もうが、何をやろうが、その枠の中からは出られない。

 

 

 

 

 

わたしが観察する世界は、他の人の世界ではなく、わたしの世界。

 

その人の世界は、その人にお任せする。

 

 

 

わたしは、わたしの場を整える。

 

 

 

 

 

今日は、「試された。」そう思いました。

 

「昨日、気づいたことを、ちゃんと遣えますか?」

 

と、試され、まんまと引っかかりました。

 

 

気づくことはできたけれど、これを現実世界で、どんなふうに捉えて遣えばいいんだろう。と、ぎこちない感覚を持ったままでいましたが、見事にわたしの望みを叶えて、その場面の設定をしてくれました。

 

 

ちょうど、テニスのコーチが、

 

 

 

 

「こうやってサーブは打つんだよ。じゃあ、次、実際にやってみて。」

 

そんなふうに言われた感じです。

 

 

 

『学び』に小さいも大きいもありませんが、

 

ここは、しっかり感覚を遣って復習して、練習を積み重ねて、試合で実際に遣っていけるように訓練しないと、自分のものにならないよ。

 

と、試されることがあります。

 

 

 

 

目の前で起こった現実と、自分の感情が、ピッタリとくっついてしまう様は、まるで

 

 

 

湿布のようだと、いつも思います。

 

べったりと、わたしの観えない意識がくっついているような状態。

 

 

これを、べりッと引きはがす方法としてわたしが遣っているのは、

 

「あのスピリットは、何を観せてくれているんだろう。」

 

と、人として観ないようにしています。

 

 

 

わたしにとっては、これが、湿布とシートを剥がす方法なんです。