自我を超えるきっかけは、
「やってみたらどうなるんだろう。」
そんな想いでした。
自我の世界にいた私は、
自分にとって都合の悪いことや、
やりたくないこと、
めんどくさいと思う事は、やってこなかったわけです。
やってこなかったのですから、やった時どんなことになるのか全くわかりません。
何が起こるのか、何も起こらないのか、
何か気持ちに変化があるのかないのか、
そんなことも、やってみないとわからないんだと、やることに決めたんです。
特別なことではありません。
私の日常を使います。
気にしなければ、気にならないような床の汚れを、
今までなら、
「まっ、また今度でいっか。」
と、観て見ぬ振りをしていたのを、ササッと拭いてしまう。
シーツを洗おうかと思いながら、
「まっ、来週でいっか。」
と、後に後にと伸ばしていたことを、今、やってしまう。
時間がかかりそうで、そうとう集中力を使わないとできないような仕事を頼まれても、めんどくさいを一切使わずに、
「はい」
と、快く引き受け、私の精一杯で、一切手を抜くことなくやってみる。
再び修正するように言われても、一切妥協せず修正する。
毎瞬毎瞬の選択を意識して、
やりたいことはやる。
やりたくないこともやる。
それを繰り返した結果、わたしの胸の中は、
満足感で満ち溢れるようになりました。
何も変わらない日常。
何をもらったわけでもなく、
何を買ったわけでもない。
誰かに褒められたわけでもなければ、
誰かにご褒美をもらったわけでもない。
だけど、満足感で、満ち溢れているんです。
これが『肯定』の流れだとわかったのは、つい最近です。
スピリットであるわたし達は、『肯定』の流れに乗ると、
こんな感覚を味わうんだと、
疲れるという言葉を、いつの間にか言わなくなりました。
やりたいことだけやっていた時とは、比べ物にならないくらいの満足感です。
この体験をしたことで、私は、人に対してもそうするとどうなるんだろうと試してみました。
謝りたくないと思った時は、謝る。
手伝いたくないと思った時は、手伝う。
言うことを聞いてあげたくない時は、直ぐに聞いてあげる。
話しをしたくない時は、話しをする。
意識の世界でなかなか超えられなかった自我の世界を超えられたのは、この体験からでした。
意地を張ってる自我を、素直にさせる。
そんな感覚です。
この満足感は、半端ない。
この持続する満足感は、いったいどこからエネルギーをもらって溢れてきているのだろう。
自我優位の時は
幸せだと思うと、いつまでもこの幸せが続いてくれればいいのにと、不幸がやってくることに不安を感じていました。
この満足感は、外からもらうのではなく、自分が創ることができます。
ほんの些細な日常。
毎日の何の変わり映えのしない日常が、こんなにも豊かになるとは思いもしませんでした。
それは、私だけではありません。
家族みんなが、職場の人みんなが、出会う人みんなが、笑顔と思いやりの世界にいます。