自我優位の時、
この世は鏡の世界だと、頭ではわかっていても、
自分の方が正しいと、ここだけは絶対に鏡なんかじゃないと、言い張っていた時がありました。
どう考えたって、人として、一般常識として、わたしの方が正しい。
だから、絶対に鏡なんかじゃない。
そうやって、自分の都合のいい時は鏡を遣い、そうじゃない時は、わたしの世界から鏡を無くしていたときがありました。
今でこそ、「そんな時があったなぁ」と、懐かしく思いますが、本当に『自我』は、漢字そのまま、自分の我を張る存在だったなと、つくづく思います。
我を張っていた頃は、鏡の遣い方がまだまだ幼くて、自分が見たまま、聞いたままを捉えていました。
だから、
「あんなこと、わたしは絶対にしない!」
と、比較そのもので、鏡を観ようとしていました。
それでも諦めずに、鏡を遣い続けてこれたのは、
体験でした。
「いったい何を映し出してくれてるんだろう。」
そう素直になることで、腑に落ちる答えが出ると、
一気に、こころが軽くなり、観える世界が変わってしまうという体験でした。
『自我』も、自分が色々な体験をしたことで、
愛される方法や、痛みや辛さから自分を守る方法、この社会で上手く生きていく方法を考え出した結果、生まれた存在です。
そんな方法を使わなくても愛されることや、
痛みや辛さは、自分が創造しない限り体験しないことや、
上手く生きようとしなくても、生きることができる。
という体験を、『自我』さえも納得できる、『自我』さえも安心できる、
その体験を繰り返せば、
もう我を張る必要は無くなってしまいます。
この世は、フラクタル構造です。
「あんな酷いことを、よくするもんだ。」
そう自我は言い張りますが、
「わたしは、行動には現わさなかったけれど、一度もそう思ったことはなかったの?」
そう自分に問いかけると、
「あぁ、わたしそのものだ。」
そう、答えるわたしがいます。
我を張っていた頃より、ずっと優しいわたしがいます。
我を張っていた頃より、ずっと相手のことを思うわたしがいます。
この体験を続けていくと、いったいどんな世界が観えて来るのだろう。
是非、体験してみたい。
そう思います。