私は、看護師の免許を持っています。
この資格は、専門学校か看護大学に行き、国家試験を受け合格すれば取得することができます。
こんなふうに、この現実世界で資格を取る等の願いは、誰もが同じプロセスを踏む必要があり、逆に言えば、このプロセスを踏まないと、その資格を取ることができません。
私が生きてきた人生を振り返って、
なぜ私は、看護師になったのか。
なぜ私は、あの病院に就職したのか。
なぜ私は、今の夫と結婚することになったのか。
なぜ私は、あの時、あの望みが叶ったのか・・・
そう考えてみても、そこに理由はなく、
「ただそうしたかったから。」
そうした結果、
その環境で色々な体験をしたことで、色んな想いが生まれ、
その時その時、自分なりに考えてきて生きてきた結果、今、ここにいます。
私は、このブログでも、
「自分の人生は、自分で創造する。」
そう書いていましたが、どうも勘違いをしていたように思うのです。
「自分の人生は、自分で創造する。」
この言葉そのものはこれでいいのですが、
私は、自分で自分の人生を何とかしようとすることが、この言葉の持つ意味だと思っていたのです。
でも、
この体験をしたことで、「どうも違う。」 そう思ったのです。
自我の世界にいたときは、とにかく自分の観た外の世界に振り回されていました。
いつもいつも、時間に追われているような生き方をしていました。
でも、別の世界があることに気づきだしてからは、とにかく自分の思っていることと外の世界、自分の感情、自分の感覚を照らし合わせながら観察を続けてきました。
その結果、
ネガティブな感情が現れたら、課題が投下されたサインだと受け止めて課題を解き、
わからないことは、ガイドに相談し、
これから起こる出来事(予定)に対して『陰』の世界を創造しそうになっていたら『陽』に反転できるようになりました。
でもそれらの全て、私の前にやってくる風景は、私が仕組んだものではないわけです。
東京の従弟が、1月13日に、こちらの方へやってくるということは、私には仕組むことができないわけです。
言ってみれば、常に『未知』の世界です。
今日と同じ日が明日もやってくると思ってしまうのは、朝起きて、顔を洗って・・・みたいな自分の生活のおおまかなパターンを言っているだけのことで、今この瞬間の3分後には何が起こるのかわからないわけです。
だのに、私は、「自分の人生を自分で創造する。」と、まるで外の世界を自分で創り直すみたいな勢いで言っていたのです。
これ、全くの思考ですし、自我そのものでした。
要するに、私の都合で、春夏秋冬を、
「すみませんが、私は、春と秋が好きなもんで、夏と冬は、どっかへいっちゃってもらっていいですか?」
と言っているのと同じレベルで言っていたんです。
そうではなく、
春が来たら、コートを脱ぎ、
夏が来たら、半そでに変え、
秋が来たら、カーディガンを着て、
冬が来たら、またコートを着る。
そんなふうに、私の目の前に到来した風景に対して、私が私好みの心地良い世界に創造していくことが、
「自分の人生を、自分で創造する。」
ということなのだろうと、今の私のレベルではそう思うに至ったのです。
春夏秋冬という季節を、いじくりまわすことなど必要ないのだと。
今、夜の10時25分です。
昨日も同じくらいの時間に、こうやってブログを書いていますが、私が観る外の世界が、想像もつかなかった世界になっています。
どんな世界かと言葉で言えば、
『思いやり』と『おもてなし』の世界です。