この世には、鏡の法則があります。
鏡が実際にあるわけではないですが、見事に私を映し出してくれます。
最初は、なかなか受け入れることができませんでした。
「いや~ないない 私は、人の悪口なんか言わないし、あんなにいつまでもグチグチ言うなんてことないから。」
そうやって、せっかく鏡が私を映しだしてくれたのに、その鏡を見ようともしませんでしたね。
だってねぇ、私が嫌いなタイプのあの人と私が同じだなんて、考えたくもなかったですからね。
鏡は、いつも凸と凹の合わせ鏡のようだと思ってしまいます。
例えば、イライラを言葉にして言う人と、イライラを言葉にはしないけど、頭の中では言葉にしている人。
何でも言葉にしてズケズケと言う人のことは、大人じゃないとか、我慢できない人とか言われてしまい、口に出さない人は、大人だとか我慢強い人だとか言われます。
鏡の世界として観て見れば、全く同じ周波数を持ち合わせていて、凸か凹かだけ。
「あの人、いつもグチグチ文句ばっかり言っていて、ああゆう人嫌いだな。」
私は、一切愚痴など言ったことはないような台詞を平気で言ってしまいますが、自分の思考の言葉をきちんと聞いてみると、恐るべき事実がわかります。
愚痴を言いまくってますから。
何もしない旦那!
散らかす子ども!
「何で、私ばっかり」ってね。
この鏡が、本当に素晴らしいと思うのは、タイミングです。
私が私と、ちゃんと向き合うべきタイミングで、私のこころの中を観せてくれます。
私の場合は、母のため息が、私のため息だとわかったときに、この鏡の法則が腑に落ちました。
それでも最初は、10感情が動くことがあっても、1つ、「あ!」って気づくくらいで、それも表面的なことしか観ることはできませんでした。
でも、その1つでも、たとえ表面的なことであっても、その時の私の精一杯で鏡の法則を遣うことで、こころが軽くなることがわかった時、
「何か足らない私に、何かをタスのではなく、捨てるのか!」
そうわかった時でもありました。
そんなふうに、誰に教えてもらうわけでもなく、自分なりに試行錯誤しながら鏡の遣い方に慣れていったことで、
今では、鏡がある方が、ずっと簡単に観察できるようになりましたし、自分がそう思っていることに気づけて笑ってしまうことだってあります。
ついこの間も、面白いことがありました。
リビングにある机の上を、いつも長女が細かいものを置いてゴチャゴチャにしてしまうんです。
で、私はそれを、箱にまとめたりするんですが、やっぱりゴチャゴチャになるんです。
で、気づいたんですよ。
私の書斎の机の上が、ゴチャゴチャしてるって
「あ~、こりぁ、私が綺麗に片づけるようにならない限り、観せられてしまうわぁ~」
って思ったら、笑えてきました。
私の中では、綺麗にしたいと思っているのに、現実の世界では綺麗にしていないから、不満足状態ですよ。
鏡の法則を知った頃や、自我を知った頃は、
「手放さないといけない。」
と、自分に言い聞かせていました。
その時はそれでよくて、それが私の分相応だったんだと思います。
でも今は、
「焦らされてる」 と思った時は、
「あぁ、私今、焦ってるんだ。そうなのかぁ。」
と、観えない自分のこころを観ることができることで、リセットできるようになりました。
鏡の遣い方は、段々と変化していきます。
手鏡から三面鏡・・・ミラーボールへ、みたいに。
まだ私は、四面鏡くらいですが、それでもこんなに自分を観るのが楽しいのですから、もっとすごい世界があるんだろうなと思っています。
観えない鏡は、決して姿や形、言葉という観えるモノや聴こえるモノを観せてくれているわけではありません。
それなら、現実世界の鏡を見ればいいわけですから。
「手放さなければならない」
と、思考で一生懸命だった世界から、
「ほぉ~、それは私だったのか。」と、何もかも受け入れてしまうと、
モヤっとしたモノが、私の体の奥深くに、溶け込んでしまうような感覚を味わいます。
喜怒哀楽で言えば、『喜び』のようです。
現実世界でも、自分の全体の姿を見るなら、手鏡より大きい鏡、それが何枚もある方が、自分の姿をリアルに見ることができるように、
観えない意識の世界も、自分の持つ鏡を大きくし、色んな角度から観れるようになっていけば、もっと自分を活かすことができるようになるんだと思います。
自我を超える時も、自我を超えてからも、この鏡は、大いに役立ってくれます。