外に観える鏡の世界に、自分の願いが叶う映像を投影しようと思うなら、内側の自分の願いを叶えてあげればいいのか
自我優位の私が、そこに気づくまで、それなりの時間を費やしました。
いえ、逆ですね。
それなりの時間を費やしたから、気づける位置に来た。
どうあったって、そこに辿り着くまでのプロセスは必要だったんです。
その頃の私はまだ、思考、自我、内側、意識の自分等々の定義が曖昧でした。
どれが思考で、どれが自我なのか、区別がつかない状態でした。
内側の私 = 意識界の私 と定義させて頂きますね。
自我優位の時は、本当に頭の中がやかましい。
常に何かを喋っていました。
最も、それを私は、自分で考えていることだと思っていたわけです。
自我を手放すことを繰り返していった時、段々と頭の中が静かになっていくのがわかりましたから、頭の中をやかましくさせていたのは、自我にくっついた思考だったのでしょう。
今も、頭の中で勝手に喋り出した時、「あ、自我だな。」と思うと、急に静かになってしまうので、多分自我なのでしょう。
自我を手放していくと、頭の中が静かになりますから、「ふと思った」ことを捉えることができます。
「今日は、天気がいいから洗濯物を干して、それから掃除をして、その後買い物に行って・・・」という思考から
「今日は、洗濯物を干すと気持ち良さそう。」
「掃除もしたくなっちゃった。」
「気持ちいいから、散歩もして買い物もしよう。」
と、時間で家事を采配するとか、やらなければならないからやるというよりは、「やりたいからやる」という、意識世界の私の意識が発動します。
頭で考えている時は、この言葉そのもののように、頭の中で言葉が行きかいます。
でも、意識界の私の意識は、
一滴の水が水面に落ちた瞬間に波紋が広がるように、
一滴の意識を、この思考を遣って翻訳するような感覚です。
だから、今の私の日常は、この「ふと」に導かれて、「ふと」を辿っていくような動線です。
思考は、この意識界の私の想いを日本語に翻訳してくれたり、
パソコンの操作やExcelやWordの使い方や、料理を作るための材料や器具の名前を覚えてくれて、この三次元世界で私が生きやすいように働いてくれています。
「ふと」 散歩に行きたいと思った。
「ふと」 あの人に会いたいと思った。
「ふと」 あのことをもっと知りたいと思った。
私は、この「ふと」は、意識界の私の想いなんだとわかってから、「ふと」思ったことは実行に移しました。
それは、本当に私の日常の些細なことです。
「あ、お風呂に入ろう。」
「あ、コーヒーを飲もう。」
「あ、上着を着よう。」
そう心の中でつぶやいた想いを、決して無視せず、めんどくさいと止めたりせず、実行に移し続けた結果、
私のハートの中が、半端ない満足感に溢れ、それがずっと持続しているのです。
ずっと満足感を持ち続けるなんて思考では無理だと思いました。
一昨日、面白い記事を読みました。
自分の子どもが、算数のプリントの問題をしている時に、癇癪を起してプリントを破ってしまって困ってるんだと、お父さんは、友人に相談をしました。
そうすると友人は、20問あるなら、そのプリントを4問づつに切って、4問ができたら、次の4問を渡すようにしたらどうだい?と教えてくれました。
早速お父さんは、それを実行すると、子どもは4問解けたら次の問題ができると、一生懸命に取り組むようになって、次の問題を欲しがるようになったと書かれていました。
私も同じようなことをやっていました。
未来に大きな夢を掲げ、「手が届かない」、「どうしたらそうなるんだ」、「いつになったらなれるんだ」と、自分の分相応を遥かに超えた創造をしようとしていました。
結局、私が創り出していたのは、自我の世界での
焦ること
手が届かない
願いは叶わない
満足できない今の私を創造していたのです。
今の自分を満足させてあげるには、今の自分が満足することをすればいいんです。
ただ、「ふと」を実行に移していくというのは、自我にとっては、とんでもない覚悟がいります。
だって自我は、損得を考えるし、失敗したらどうしようとか、そんなことばかりやっていていったい何になるんだと文句を言い始めますから。
「ふと」を信じ切れるということは、意識界の私の存在を完全に信頼しているということです。
意識界の私の願いを、肉体の私が叶えてあげるという関係性は、『信頼』以外のなにものでもありません。
肉体の私が、完全に意識界の私に『委ねる』ことができているという関係です。
私の内側には、『満足』と『信頼』 が持続的に存在することになります。
外の鏡の世界には、『満足』と『信頼』が投影されます。
それを私は受け取り、再び『満足』と『信頼』を放出していきます。
日常が、楽しくて仕方がない。
そんな世界に私はいます。