自我には、弱点があります。
一つは、明らかにされること。
もう一つは、素直になられること。
自我が何かを知らなくても、
自我をどうやって超えたらいいのかわからなくても、
自我の域を、ほんのちょっとでも抜ける必要があります。
抜けない限り、自我が何かを知ることはできず、抜ければ、自我が何かがわかります。
そんなしくみが、この世にはあります。
私自身、自我に気づいたのは、ごく最近です。
そんなもんなんだと思います。
この見えない世界のしくみは。
自我が何かを知らなかった私が、わかったことがありました。
それは、私が思ってる常識は、全て私が創ってきたモノだと言うコト。
例えば、
道路には、当然のように
信号機があります。
安全に車が走れたり、自転車が走れたり、歩行者が歩けるようにと事故が起こらないように、人間が作りだしたモノです。
赤なら止まって、青なら進んで、黄色は注意だなと、私たちは、当たり前のように、思っています。
何故なら、物心つくかつかないうちから、そう、教えられるからです。
でも、これは、車がある社会だからです。
アフリカの森林の中では必要がないモノで、これがあっても役にはたたないし、そもそもいらないモノです。
それで気づいたんです。
私が常識だと思っているコトは、私がこの社会で生きる為に覚えこんだコトなんだと。
スピリットの世界には、必要がないモノなんだと。
だからって、赤でも進みなさいというコトではなくて、私は、興味を持ってしまったんです。
この私が覚えてしまった常識を手放したらどうなるんだろうって。
最初はね、手放したら、逆の性格になってしまうんじゃないかと思いました。
例えば、
「優しくしなければならない」
これを、手放したら、優しくなくなるんじゃないかと思いました。
でもそうじゃなく、何の気負いもなく、優しくしなければならないではなく、優しくなってしまう。
「優しくしなければならない」
そう思っていると、優しくしていない人を見ると、腹が立ってくるわけです。
「何で、優しくしてあげないんだ」
って。
それでどうなるかと言うと、私は、その人に優しくできなくなってしまうんです。
「優しくしなければならない」と思っているのにです。
で、私は、自分のコトは横においておいて、
「優しくしない、あの人が悪いんだ」
そう思ってしまい、段々とその人のコトを嫌いになっていくという、ドツボにはまっていくわけです。
じゃあ、その私が持つ、
「優しくしなければならない」は、いったいいつから覚えたんだってことですよ。
例えばで言うと、
お父さんが、常に
「人には優しくしなければいけないんだよ。」
と、そう教え続けてくれたり、
お父さんが、お母さんにいつも怒ってばかりいる様子を見て、
「もっと、優しくしてあげればいいのに。」
と思い続けたことが、自分の意識に染み込んでいった。
こういうしくみがあることに気づいたので、私は、
誰かに腹が立ったら、その逆を私が信じてるんだと意識するようになったんです。
優しくしていない人を見て、腹が立つと言うコトは、優しくしなければいけないと信じてるんだ。
とね。
最初は、そんな感じで、あまり深く意味も考えずに、自分が信じたコトを手放していきました。
でも、手放した後、胸のモヤモヤがなくなったり、相手のコトが気にならなくなっていったので、
こんな法則が、心にはあるんだ と、喜んでました。
今、振り返って思うのは、
胸がモヤモヤしているのを、そのままにしておかないコト。
モヤモヤが何なのかを明らかにすること。
それと、感情が動いたら、自分の感情と向きあって、どんなことを私は信じているのかを素直に観てみるコト。
それが、いつの間にか、自我から顔を出すきっかけになっていったんだと思います。
「頑張らなくてはいけない。」
「大切にしなければいけない。」
「努力しなければいけない。」等々
これらは、全部、自分がそう思い込んだコトです。
スピリットの世界では、こんな常識は存在せず、
頑張らなくても、
大切にしなくても、
努力しなくても、
頑張れるし、
大切にできるし、
努力できるんです。