「もう、そこまでできたら十分じゃないの?」
『匠』と呼ばれる人を見ると、そう思う。
でも、そういう人に限って言う。
「まだまだだ。」
そして、こういう人に限って、自分の感覚を研ぎ澄ます。
大工さんなら、カンナやのこぎりを大切にし、カンナそのものの持つ力を最大限に活かすことができるよう、刃を研いだり、木を削った時のわずかな感覚に意識を向ける。
板前さんなら、食材を最大限に活かすことができるよう食材の特徴を知り、包丁で食材を切った時の感覚を研ぎ澄ます。
決して手を抜かない。
自分の感覚を研ぎ澄ます。
人間意識から少しずつ、スピリット意識になりつつあるとき、
大きな勘違いをする時があった。
『ゼロ』になれば、何でも手に入るんじゃないか。
『ゼロ』になれば、何でも思うようになるんじゃないか。
『ゼロ』になれば、願望は全て叶うんじゃないか。
今、ここに在るモノより、遠い先の未来に意識を向ける。
意識は、今、ここにいない。
階段を昇るためには、今、目の前にある、この1段にしっかりと意識を向ける。
今、目の前にある1段の階段を昇れば、必ず上の段に行ける。
私たちは、選択の連続で生きている。
今、お風呂に入ろうか、ご飯を食べようか。
そんな日常生活の選択から、勉強をするかしないかの選択に、国語からするか数学からするかの選択。
どの高校を選ぶか、それとも進学しないのか、どんな仕事を選ぶのか・・・
どの人と付き合い、どのタイミングで結婚し、どこに住み、どんな家に住むのか・・・
当たり前のように、その時、そのタイミングで選択してきた。
なぜ、そちらを選択して、こちらを選択しなかったのか。
どちらを選択したとしても、自分が選択した。
でも、その選択には、条件がついていて、こういう私の条件に合ってるから、こちらを選び、私には合わないから、そちらは選ばない。
前に、そちらを選んで失敗したから、今回はこちらを選ぶ。
人間意識での選択は、常に自分が付けた条件や、自分の好みの問題だったり、こうだから、きっとこうなるだろうと言う期待のもとで、それを選択する。
今の私が選択しているのに、意識は未来にある。
スピリット意識での選択には、条件は何もない。
ただ、今の自分の胸のに意識を向けるだけ。
その選択は、朝起きた瞬間から始まる。
それが日常生活の些細な事であったとしても、その些細な選択を意識的に選択する。
その繰り返しが、自分の持つ感覚を研ぎ澄ませる。
この研ぎ澄ませた感覚は、決して1日で出来上がるモノではないし、いつか意識しなくてもいいとなるようなモノでもない。
この感覚を無視してしまうことは、本来の私からズレていく。
この感覚を信じると言う事は、自分自身を究極に信じることになる。