よくやってしまうこと。
家を出たら、スピリット意識。
家に帰ったら、人間意識。
自分にあまり関係のない人には、スピリット意識。
いつも一緒にいる友人には、人間意識。
自分が嫌いな人には、スピリット意識。
自分が好きな人には、人間意識。
ニュースは、スピリット意識。
恋愛ドラマは、人間意識。
実のところ、この世のしくみからすれば、親も子も、同僚も上司も、夫も妻も、恋人も嫌いな人も、全く関係はない。
関係があるのは、その人との関係の距離。
自分の財布を、家族の誰かに盗まれた時と、職場の誰かに盗まれた時と、全く赤の他人に盗まれた時と、味わう感情は全く違う。
同じ、「財布を盗まれた」と言う事実だけど、誰に盗まれたのか、どこで盗まれたのかによって、味わう感情は全く違う。
この事と同じように、同じ内容のトラブルがあっても、誰と、どこで、どんなタイミングかで、味わう感情は全く違う。
『ゼロ』に戻るのであれば、家族も他人も、上司も同僚も、それは表面だけの事で、全く関係のないスピリットだと、頭に徹底的に覚えさせる。
親と言う着ぐるみを着た、上司と言う着ぐるみを着たスピリットだと、徹底的に覚えさせる。
あの人は、好きな人だから関係ないでしょ?
あの人は、私を楽しませてくれる人だから関係ないでしょ?
そう言いたい、そう思いたい気持ちは、私も人間。十分に理解できる。
でも、『ゼロ』に戻るなら、その区別はいらない。
じゃあ、私の感情はどうなるの?
私の喜びの感情や、楽しいと言う感情は、どうなるの?
その感情に執着している限り、執着する何かを観ることになる。
もちろん、観ても構わないけれど、『ゼロ』にはなれない。
ただ、それだけのこと。
感情が無くなったら、喜怒哀楽が無くなったら、つまらない人生じゃない!
そうだね。人間として生きるなら。
自由とは、自分の意思で選択できること。
選択したくないことは、選択しなくていい。
それが自由と言うモノ。
『ゼロ』か、そうでないか。
二者択一しか存在しない世界にいる。
中途半端を望むのであれば、そうでない方を選んだことになる。
『ゼロ』は、徹底的にです。
何故なら、プラス1は、『ゼロ』ではないからです。